2014年03月30日

春のテキスト

人間は表現欲求を持っている。
他の動物も持っているかも知れない。イルカとか。知らないけど。
けど人間の表現欲求は群を抜いているように感じられる。
なんかとにかく何でも書き残すし、喋ってる。伝達してる。
「それおれの餌だからとるな」とか生存に関わることだけじゃなく、
むしろそんな重大なことを伝達する機会は稀で、殆どの時間は他愛もないことを伝達してる。
伝達しあってる。

頭の中になにかが閃く。「こんなに表現とか伝達とかしてるの人間くらいかな?」とか。
そしたらそれを書く。例えば今おれは書いている訳だが、これはさっき台所で煙草を吸っている時に思いついて、10分くらいはそのことを考えていた。仮説とか反証とか展開しながら。

書いてはいるが、これは別に誰に向けて書いている訳でもない。ざっくりと「読む誰か」を想定はしているが(これを書き終わったらブログに載せようか、どうか、とか今は考えているから)、この仮定の伝達対象は伝達を開始した後に登場したもので、いざ伝達が始まった瞬間には、タッチの差とは思うけど、やっぱり居なかったと思う。つまり文章として書き残してはいるけども、記録として外部化されているけども、誰のためかというとおそらくそういうことではない。後で、数年後に偶然みつけて自分読み返すと、それはまぁある程度は楽しい気分を味わうだろうが、多分数年後にこの文章をみつけてもたぶん「これブログに載せようか」と思うだけだろう。そして載せたり載せなかったりは、その時次第だ。世界にはそのようなテキスト(エクリチュール?)が情報量にして何ギガバイトくらいあるのだろうか。

PCのフォルダ奥深いところに、こういうテキストが埋もれていることがよくある。昔はよくあった。記録媒体(わざわざ記録媒体、と書くのは、ハードディスクと書いても、このテキストが読まれる時にはもうハードディスクなんて使ってないかも知れなくて、なんとなく古ぼけた感を感じさせるかも知れないからだ。それでも別にいいのだが、今は別にその古ぼけた感を特に伝達したい訳ではないので)がクラッシュ(今の時代にはクラッシュという現象があります)して、定期的にそういったテキストは失われる。ある頃から、おれは思いつきをテキストファイルにして保存することをしなくなった。10年くらいしてない気がする。なぜしなくなったかというと、思いついたことはツイッター(未来の皆さんがこれを読んでいるのなら、西暦2014年くらいに流行したテキストメディアです)などですぐに「伝達」してしまうように、いつの間にかなったからだ。ひょいひょいと外に溢れ出すから、PCの奥深くに蓄積しない。以前、フォルダの整理をしていると「春の馬鹿野郎.txt」というファイルがあって、開くと中に何が書かれていたかはもう忘れたのだが、まぁ春の気分について非常に瞬間的なことがらが一言二言書かれていた。ファイル名は重要だ。そこに「なぬ?」という疑問があると、中を確認したくなる。「名称未設定.txt」とかのファイルが未来に内容を確認される可能性はぐっと下がるだろう。

そういえば今、これを書いているのは2014年3月30日。午前3:56分。春だ。おれは春になると筆が進むのだろう。うろ覚えだが、上記ファイルを見つけた時にも、他にも数年分、春のメモを発見した記憶がある。それらは全部HDクラッシュで失われた。儚いものだ。

今年の春は「伝達」についてだ。なんでヒトはこんなにも過剰に、無意味に伝達するのか。
承認欲求もあるだろう。だが誰に承認してもらいたいかというと、こうしてまた数年後の春にこの文章をみつける自分自身に、だろうか。ほんとかな? 今これを書いているおれも、その時の今これを読んでいるおれも、お互いにそれほど興味関心を持っていないだろう。不慮の事故でおれが死んだとする。遺品の整理としてPCの中身も確認し、このテキストが発見される。おれが文豪とかそういうのなら、その時の新聞に「発見!」とかなるかも知れない。それは楽しそうだ。だからといってその読者を意識しては書かない。想像つかないからだ。たぶんそういう文豪とか新聞とかそういう感じでは今回の人生はないので、家族とか、妻とか、親しい友人が、このテキストを今読んでいるかも知れない。結構長そうで、ちょっとうぇ、てなっている人もいるだろう。しかも読んでも読んでも、大したことが書いてない。けども、まぁ家族や、いや家族はないかな、妻とか、かつての恋人とか、そういう人なら、保存しておいて、ときどき夜中にブランデーなどちびちびとやりながら、少しづつ読んだりするだろうか。それくらいの量があればいいが、それを意識して書き続けることもまぁ今はしない。おれは今、「伝達」について思いついたことを、誰にともなく伝達しようとしているのだ。

ヒトの伝達は、この惑星では類をみない程、個性的だ。ヒトとしての限られた視点からの意見ではあるが。
たとえばハチが「あっちにお花があるよ、蜜があるよ」ということを伝達するダンス言語を持っているらしいが、それは先述した、重要なこと、あるいは、本能的な、生という業務的なことであって、この春のテキストのような無意味、無目的なものではない。ハチが「ねーちょっときいてよ、あのさー」てみたいなダンシングコミュニケーションを行っている、とは、おれはこれまで聞いたことがない。今は春なので、ここ数日ネコがなうなういっている。あれなんかちょっと近い気がするけど、けどいいっぱなしだし、それほど長く持続しない。ネコはNOWと言っているだけなのだろう。上手いこというだろうとかじゃなく、本当にそう思う。

トリなんかはしょっちゅうピーチクしてる。しかも相互に、四六時中やっているので、例えば熱帯のトリたちはもしかしたら「あんなー」「なにー」みたいなやりとりをしているのかも知れない。しかし、トリは書かない。トリやネコも、なにかが閃くこともあるだろう。サカナ。オヒサマ。そうしたら、「サカナ!サカナ!」とか「オヒサマ!オヒサマ!」とかいってるかも知れない。で、「ン?モシカシテ…」となにか思いつくかも知れない。「デンタツ!デンタツ!」くらいはあるかもね。さらに「ん?おれってめっちゃ伝達してね?」とか「それってもしかしたらこういうこと?」とか、脳の中で、あるいは言語それ自体が自らを編んでいくように、思考が展開するかも知れない。それを「ピーチク」とか「NOW」など、彼らの持っている言語能力で伝えるのは、多分難しいのではないだろうか。中には試みた個体もいたかも知れない。けど、多分途中で止めただろう。ヒトは、というかおれは、例えば食事中にこういうことを思いつくと、割と気軽に喋る。今は夜中なので、喋る相手がいないから、書いている。書いて、「ン?モシカシテ…」を深めたり拡張したりをしている。こんなことしてるのは、少なくともこの惑星では、ヒトくらいだと思う。いやヒトとしての限定された視野からみると、そうだというだけだが。ネコがこういうことを書いているのをみたことも聞いたこともない。植物なんかは結構あやしい。そういうことしてそうだが、まぁわからない。石もヤバい。石は存在自体が記録だ。やつらは記録として、結果として存在し、しかも育ったりしてる。けどそれもまぁ石の気持ちはヒトのおれにはわからない。ヒトは記録を石に刻む。シリコンだってまー石だ。石と記録にはなにかある。

ハチやネコと、ヒトの違いは、脳の大きさとかいわれるけども、ここではシンプルに「言語」といっておこう。言語が、この惑星の他の種族に比べて、ずばぬけて複雑なのだ。複雑すぎて、もはや言語が言語それ自身を生み出し、展開し、編み上げていっているようにも思える。誰に伝達しようというつもりもなく、どんどん自己増殖し、いや増殖どころか、自己組織化している。この文章も、書かれれば書かれる程、その思考は拡張され、蓄積し、情報量が増え続け居てる。にもかかわらず、途中で意味が不明になるとか、文字化けして読めなくなるとか、そういうことがない。バロウズという作家が「言語は外宇宙から飛来してヒトに寄生したウィルスだ」といってカッコいいが、まぁなんらかの閃きとして、的を得ている気がする。みんなもこのことをもっと真面目に考えたほうがいい。

このテキストは「春のテキスト」フォルダに保存しようかと思ったが、ブログに載せることにした。もはやどちらも大差はないような気がするからだ。


追記0330
もしかして、と思って前回「春のテキスト」を発見した時のポストがあるかも、と思って検索したらあった。2007年だった。
http://23youbi.seesaa.net/article/35514180.html

posted by bangi at 04:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月15日

WILD SIDE MEETING

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「友よ、答えは風に吹かれている」ーフォークシンガー

「いうまでもなく、我々はバーチャルスペースからの逃走を試みているのだ」ー1996年ハッカー会議録

「そりゃあんた、99年にもなれば世紀末なんてとっくに終っているわよ」ー友人の母

「グッモーニン、エブリワン!」ー英語教師

祭は終り、星の下荒野に火が灯る
砂、石、枯木で天幕が張られ
様々な不思議な旗章が交換される
それは野蛮で快活な市場のはじまり
旅人、商人、詩人たち
星を読み、体に荷を括り付けて運ぶ彼らは
まどろむ子供たちにいつ終わるともないおとぎ話を囁き
日の出を待ちながら綿密な旅の計画を立てている

悉くが「情報」にすり替えられた風景の中で
「情報」を集め、分配し、また回収する元締めたち
私たちが眠り、食べ、歩き、笑うことに
彼らはどんな代価を要求できるというのか
だけど、私たちは決してすり替えられることのない
私たち自身の生を生きていることを知っている
もし、あなたがあなたの悉くを「情報化」あるいは
「消費」してしまったと嘆いているとしても
大丈夫、あなたの奥底に手付かずの荒野は広がっている
陽が上り、星が巡るその大地は心の中、最奥の秘密の場所
私たちはある月と星と風の夜
そこで落ち逢おう、というのだ
そして互いの微笑みと合図を持ち帰り
私たちの街に素敵な公園と花壇とモニュメントを
何食わぬ顔で造営しようという訳だ

この私たちの場所を、隙間と呼ばせてはいけない
そこは私たちを媒介する隙間を知覚することによって
私たち自身に出会う場所なのだ、逆ではない
また、この場所を辺境と呼ばせてもいけない
そこは私たち自身が経験し、紡ぎ出す人生そのものの風景なのだから
そして重要なことだが、この場所であまり騒ぎたて、はしゃいではいけない
私たちは祭りの後の日常をこそ、確かめようとしているのだから
早すぎる、なんて心配は無用
私たちは皆、一瞬一瞬、今ここに生きている存在であり
どこか遠くに浮かぶ陽炎では決してない
何が起ころうと、それはいつも「今、ここで」起きる
さて、そろそろ、私たちのミーティングを持とうではないか
私たち自身が、生きていくこの街で
星降る夜に、お茶とお酒と歌と微笑みで
お互いのプランを吟味しようではないか
WILD SIDEは私たちを包み、広がっている

text by Bangi Vanz Abdul (KAUNTAR)
(1999/02/28渋谷SPACE EDGEにて雑誌『A』主催イベントWILD SIDE MEETING VOL1に寄せた一文)
posted by bangi at 01:14| Comment(0) | 詩と芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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