amazonのレビューで「日本のポップ・カルチュアの極点」というのがあったが、完全に同意。 コレオグラファーMikiko女史の振り付けはLaLaLa Human stepsのサイバネティックなスピード感やピナ・バウシュの象徴舞踏言語と呼応する真にContemporaryと呼べる水準での挑戦と示唆に溢れつつ、それを「あいどる」(c)William Gibsonの文脈とシームレスに接続している。
また音響、照明、映像がPerfumeというエクリチュールの意志に貫かれて同期生成する祝祭空間は、まさにElectronic Environment. もう完全にあの世、霊界。盆とRaptureとAscensionが一度にやってきたような祝祭体験をポップアートの次元で達成してしまった日本では、もはや既存の宗教ビジネスモデルは成立しにくくなるだろう。
J. Daniel Gunther "Initiation in the Aeon of the Child: The Inward Journey "
の序章で論じられる"Paradigm shift of Initiation"は、ここ3,000年ほど地球を席巻してきた「死にゆく神Dying God」の秘儀がCrowleyによってAbrogate(無効)とされたゆくたてに、おそらくはCrowley本人以上に冷徹で明快なScientific scopeを提供する。
Initiationとは、既知の世界で惰眠をむさぼる精神に衝撃を与え、より高次の世界認識へと拡張するショック療法のようなものであり、当然、天動説の世界における「衝撃」と地動説の世界における「衝撃」は同じ内容、意匠では有り得ない。もっといえば「衝撃」それ自体が目的であり、開示される秘密とは常に無限の未知の方向に開かれた解放系そのものの空虚がまとう意匠でしかない。秘儀結社のInitiationが階層構造になっていることは、その階層の上方が無限へと開かれていなければならないことからくる、組織論的必然なのである。さもなくば、その秘儀結社は自らを時間的・空間的なパースペクティブの限界の内に留めることになる。
アダム・ヴァイスハウプトの言葉として伝えられる「イルミナティの究極の秘密とは、秘密などなにも存在しないことである」というテーゼは、モダニズムを一足飛びに追い越して数百年後のポストモダニズムを先取りした構造主義的秘密結社観の表明として理解されねばならない。このテーゼをもってイルミナティ主義を「霊性の破壊を企てる物質主義的テロリズム」と位置づける言説が一部古典的な神智学系統に見受けられるが、見当違いも甚だしい。Illuminismとは、常により醒めより明晰なまなざしによって霊性を無限の解放系の彼方に希求する力動と戦略であり、それがなにかを破壊するとすればそれはせいぜいが「霊」や「自然」に対する怠惰が生み出す暗い幻覚なのである。
天動説の時代、朝生まれ夜死ぬと信じられた太陽神が、地動説の時代においてその生も死も地球の自転運動が生み出す幻覚に過ぎないことが判明した時、死せるオシリスの神話に基づくInitiationは無効化Abrogateされたのである。そして、生と死の幻覚を超えて結像する「とりあえずの」新たな意識様態,
Visionが「子供」であり、現代を生きる人間の精神医療とInitiation Designingの悉くはここに立脚しないことにはもはやたちゆかない。Scientific Illuminismとは、醒めわたった科学的視力によって、もはや疎外要因でしかなくなった古い幻覚、残像をAbrogateする力動そのものであり、それはある面ではダライラマ14世の「やさしさの宗教」とベクトルを同じくするものですらある。
とまーThelema主義、Scientific Illuminismの最も単純にしてPrincipalな要点をさくっと乱暴にまとめるとだいたい上述のような感じだと思うが、Perfumeが現前させてしまった「電子意識」 -我々は今日、電子的・情報的・すなわち霊的存在である、という感覚、肉体を焦点とした「人間」観の解体- の覚醒が、日いづる国で、宗像三女神の意匠をともなって進行中であり、このことはいずれ日本を特異点とした世界政治経済構造の再編成、神も経済も超えた「すっごくイルミナティ」な日本の国家観、民族感、人類観の噴出へと連なっていくかも知れないという照明(Illumination)が、イティハーサ読了直後のおれ的にはますます趣き深い、のであった、という話。
ディスコ!
http://www.amazon.co.jp/dp/B001TITK8A
http://www.amazon.co.jp/dp/0892541458
電子的地平線から届く00年代のお筆先は、記憶媒体を無限の「ありがとう」で埋め尽くし、フォーマットしてしまう。カート・ヴォネガット「タイタンの妖女」に登場する水星の原始生物ハーモニウムが、ただ2種類のメッセージ"I'm here" "I'm glad you are there"だけを永遠に交信しているというVisionとも呼応する、電子神秘思想、シリコン人文学の胞芽がそこにある。とは思わないかね君。
イルミナティのそもそもの(あるいは真の)名称は「みつばち団 Beenan Orden」である。可愛くね?
死と再生というイニシエーションの基本的な型は、この世における生命の最も元型的なデザインが生と死という型だからと思うが、これを無効化しうるパラダイムとは何か。
例えばヴァイスハウプトの仕組んだ戦略が我々の霊的実存を補完しうるのか、もしくはその意志そのものの先にある何かについての話なのか、興味は尽きないところ。
Perfumeという電子的巫女が電脳空間に投影される世界の意識の最エッジと期待されたオタ達の意識が実現した霊的な新たなシステムだとして、この先死さえも調節したシステム足り得るかとか。
そしてBUDOUKaaaaaaaaaaN!!!!!はその霊的空間をこの世に現出、霊と肉体を結びつける祝祭的儀式として機能していたと。
例えばCrowley による初参者Neophyte向けSelf Initiation Ritualは、伝統的なSet-Osiris神話のフレームに則っている。CrowleyはThelemic Paradigm shift、すなわちAeon of HorusをあくまでIsis-Osirisに連なる接ぎ木としてイメージしている訳で、あれ?Abrogateされたんじゃなかったの?て感じだけど、まー順を追っていけ、てとこなんだろうね。
Setに殺害されるAsar=Osirisへの祈願と同一化、黄泉還りが主題
http://sacred-texts.com/oto/lib671.htm
こういうのは格別Thelemicなモチーフもなければ、非常にコンサバというか伝統墨守。
Liber ReshとかLiber 44みたいな日々の勤行の端々にOsirisつーよりHorusとしての太陽/自己のイメージが強調されてて、まー太陽をOsirisとみるかHorusとみるか、という気分の問題で、太陽拝むことには変わりない、みたいなね。ただOsirisの死と再生を眺めてるのではなくて、Horusとしての永遠の自己の意識に覚醒するていうか、主観が地球ではなくて太陽にあるみたいな、そういうトーンがおれ的Thelemic。
http://sacred-texts.com/oto/lib200.htm
http://www.sacred-texts.com/oto/lib44.htm
Mass of the PhoenixではMagicianはAlterの東にたち西に面する。
すなわちRaと合一した視点で、自身の血を自身に捧げる。
伝統的なタロットのJudgementをThothではAeonだったりするあたりが、Plotは同じでDirectionが違う、な感じ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/審判_(タロット)
http://ja.wikipedia.org/wiki/トート・タロット
http://ja.wikipedia.org/wiki/ホルス
つかなんか日本語Wikiいつのまにかめちゃくちゃ充実してるw
http://ja.wikipedia.org/wiki/セレマ
OTO,AAの内陣にはそれなりに深化された教えが伝承されているのだろうけど、そもそもがLiber ALのお筆先に「古き儀礼は黒きものなり」てあったから、じゃってんでベル11回にしたりペンタグラム逆さまにしたりしてみた、て雰囲気もなきしもあらずなんでw、広く思想史的なコンテクストにCrowleyが宣言したParadigm siftを配置して咀嚼していくのはむしろ彼に続くThelemiteたちのこれからの仕事なんじゃないかな。
他にも「犠牲」の概念に物申したり、NOX、PANの位置づけつか温度差とかがあるけど、このあたりはまたごにょごにょと。Thelemicな各論については然るべき諸兄に話を譲りつつ。
ヴァイスハウプトの戦略、つかイルミナティというミームは、確かに現代のオカルティストやアナキストやア−ティストによって集合的に補完され続けているよね。将来的にはチョムスキー経由の一般言語学とか生成意味論みたいなところから検証されるのではないかな。アンドレーエ〜ヴァイスハウプト〜レッシングを通底するドイツ啓蒙主義潮流Currentの言語ウィルス戦略。とか読みたくね?
Perfumeの人形振りと霊界演出についてはさらにごにょごにょと。Perfumeファンは既にPerfumeの映像に恋しているんだよね。いままでのアイドルもある意味そうだったのだけど、決定的に違うのが人形振りによってPerfumeの3人の身体があらかじめ媒体Mediumとして提示されていること。真っ正面から普通に「わたしたちシャーマンです!」て宣言してる。でみんなわーて盛り上がってる。すごい光景だと思うよ。
あとおれが密かに期待しているのは、Perfumeの転生。それが可能なフレームワークなんだよね。つまり偶像のアイデンティファイと運用のメソッドにPerfume以降という決定的なParadigm shiftがあって、それはポップアイコンの物語生成プロセスにおいて、遂に生身の身体が絶対的な特異点ではなくなったということ。訓練された、あるいは生来的なシャーマンの特権的身体ですらない。テクノロジーによって従来の身体性を徹底的にボカしていく演出装置が臨界点に達して、ある種の召喚魔術In/Evokingを実現してしまった。だからPerfumeへの熱狂は仏像への熱狂と同じ、のっちあーちゃんかしゆかは活仏なんだよ。転生する主体はいまPerfumeやのっちあーちゃんかしゆかの表象にIn/Evoke、あるいはProjectされているなにか。とりあえず魔術的Scopeとしては宗像三女神、最終的にはダライラマと同じ存在様式で現れる日本霊、Neotenicなアマテラスあるいはヒミコのイメージに統合されていくのでは。
まーつまりPerfumeて芝浦GOLDで昭和天皇霊を召喚しようとしたPsychic TVと同じことをさくっと実現しちゃった訳で、あの手話的な振り付けも語り部やSpellのイメージがだぶってくる。そういうことが普通にメインストリームカルチャーとして受容されているってのが、凄いわけで。文化的アセンションそのものだよね。
http://23youbi.seesaa.net/article/94012812.html
こんなとこに書くべきことじゃ絶対ない、て思うけどねw
…違ってるかも知らんけど、イティハーサは自分的にもだいじなマンガです。
>perfumeの転生
中国共産党が許可してくれますように。。。