2012年08月01日

お蔵出し原稿シリーズ:できる!チャネリング講座

2000年

■■■特別寄稿■■■
できる!チャネリング講座  TEXT=合コンの夜明け団

◇できるぞ!チャネリング
 チャネリングとは、人格の着せ替えとコミュニケーションのゲーム、「霊的ごっこ遊び」である。ここでは、個人の人格というものはそれほど確かな基盤によっているものではなく、外的刺激に機械的に反応して一瞬毎に現れては消えていくかげろうのようなものであるという認識が前提となる。実際のところ、職場での自分、友人といるときの自分、親に借金するときの自分、朝までエロチャットしてしまうときの自分は、それぞれ独自の人格として輝きを放っているはずだ。行動心理学のセオリーが示唆するように、人格というものが周囲の環境に反応して働く半自動的な応対システムであるとすれば、それを意識的にコントロールしたり解放したりすることでより自由なマインドセッティングと心のエクセサイズを楽しむこともできるのだ。

人格というものが我々の精神において、いかに軽やかに現れ交換され得るかについて、こんな例を考えてみよう。
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職場の上司から「おう、今夜飲みいくぞ!」と強引に誘われる
 →「すいません、今夜はまだ仕事が片付かないので」
悪友から「今下北で飲んでるんらけろさー、はやく来いつーの2000!」と呼びだしが
かかる
 →「ざけんなよ金返せ」
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 このように、インプットされた情報に対応して半ば自動的にアウトプットを選択するシステムこそが「人格」であり、それは「ああいえばこういう」式の情報ルーチンそのものといえるのだ。我々は結構容易に人格を着替えることができるし、事実、意識的であれ無意識的にであれそうしているのである。

 さて、演技術において劇中の登場人物は「このキャラクターはああいえばこういう」式情報ルーチンの複合体、アプリケーションとして設定され、役者はこのアプリケーションを自身にインストールすることによって、まさにその人格に「なる」。この「なる」ということができてはじめて役者として一人前なのであり、不意のアドリブを迫られた時にも自分がアンドリューなり五衛門なりの「そのもの」であればセリフはまさに必然に導かれて溢れ出す。この状態はチャネリングそのものであり、優れた役者はアンドリューや五衛門といったそれぞれの役柄に自由自在にチャネルするチャネラーなのだといえる。

 チャネリングと演技術の比喩を持ち出すことを不快に感じるニューエイジャーもいるだろうが、ここで私はチャネリングを「猿芝居だ!」とけなしているのではない。そのベースとなる共通の心理的テクニックを考察することから、演技術を入り口として誰でも習得できるチャネリング術の体系を汲み上げることがねらいだ。以下に、その骨格となる概念を足速ながらまとめてみるので、興味を持った読者諸氏は各々工夫してトライしてみて欲しい。

◇早口で一気に喋ろう!
 チャネリングセッションに台本はない。すれっからしのチャネラーなら場数、経験から積み上げられたある種の不文律や定石進行を持っているかもしれないが、アドリブ空間、偶然の間に満ちた場にこそ真にピュアな霊的情報が紛れ込むのであり、したがってチャネラーの力量は臨機応変なアドリブ力にこそ問われるべきだ。徹夜明けのファミレスなどで、思考は停止しているのに喋りは止まらないといった状況を思い出して欲しい。またプレゼンテーションの名手とされる人物は、思考のスピードを追い越して口から溢れる言葉のリズムにのって喋りまくり、聴く人を魅了する。

 このように、発話のスピードをあげて情報の不断の流れを形成すると、そこにある心理的・霊的な「隙間」が生まれ、通常の意識が捉えることのない微妙な情報が発話者に流入する。密教などで使われるマントラ(真言、呪文)も、早口で途切れることなく繰り返し唱えることで変性意識状態に誘導するという、同様のテクニックを用いているのだ。チャネラーは精神の窓にうつるどんな微妙な印象もすかさず捕え、思考の網にからめとられるよりも素早く発話することによって、絶え間ない情報の渦とその中心の心理的真空状態を生み出す。素早く朗々と、淀みなく長いアドリブセンテンスを発話するために、腹式呼吸や早口言葉など、基本的な演技術の訓練が役にたつだろう。

◇いろんなキャラを楽しもう!
 一定以上の発話スピード、情報の速度を維持することで、さながら高速で回転する独楽のような安定性と自在性の場がチャネラーの精神に形成できれば、次にそこに流れ込む情報にある規範、「ああいえばこういう」ルーチンを用いて情報の交通整理=チャネル対象のキャラづけを行う訳だが、チャネルする対象もまた一個の人格というアプリケーションとして扱われる以上、どうしても固有のクセができてしまい、情報の自在な流れと速度を損なう要因となりがちだ。プレアデス星人にはプレアデスっぽいクセ、シリウス人にはそこはかとないシリウス臭さというものがあり、そのメッセージも初期のインパクトを超えてアクセスを続けると次第に固定化と沈着が起きて、大筋ではあまり変化のない、妙に説教臭いものになってしまうものなのだ。そこで、複数のチャネル対象を次々にスイッチしていくというテクニックを用いて、うかつに安定しがちなセッション展開にダイナミックな跳躍力を導入することができる。

 チャネル対象のメッセージはチャネラーのボキャブラリー、知的情報量にある程度制限され、翻訳されたかたちで表現される。あるチャネル対象(銀河連合の人らしい)がチャネラーの口を借りていみじくも語ったように、「R(チャネラーのこと)はあまり知識がないしボキャブラリーも少ないので、その媒体を通じて発信するわたし(チャネル対象のこと)のメッセージもまたそれに制限される」、つまり心でキャッチしろ、ということなのだが、要するにメッセージを組み立てる材料、情報はチャネラーというメモリーに格納されていて、外部から無尽蔵に供給される訳ではないということだ。ならば、その限られたリソースを最大限に活用するために、アウトプットの経路に多様性を持たせることが重要となる。ウェブなどに活用されるMIDIプラグインをイメージしてもらえれば分かりやすいだろう。音源は各端末に装備された限定的なものだが、演奏データによって様々な表情を演出することができる。一人のチャネラーという媒体を共鳴装置として使い回しながら、演奏者、コンダクターを次々にスイッチすることで思いがけない深みと拡がりをセッションにもたらすことができるのだ。

 K氏も書いているように、我々が同席したあるチャネラーのセッションでは優等生的な好青年、ブッとんでるけど根はいい奴、爺、お色気女神さま、といった個性豊かな面々が唐突にスイッチしてチャネラーのなかに現れた。そのスイッチングには何ら話の流れ的な文脈はなく、まぁ場の流れを邪魔しない程度の唐突さで突然「わしゃー爺じゃー」「女神よウフン」とめまぐるしく入れ替わるのだからたまらない。厳粛な場でうっかり霊的爆笑地雷を踏みそうになるが、実はこの爆笑すれすれの危ういインパクトこそが、セッション参加者の固定しがちなマインドセッティングを揺さぶり、さらなる霊的深層領域への扉を解放する秘訣でもある。

 ある問題を様々な視点から捉えること、これはあらゆるカウンセリングの基本ルールだ。セッション参加者の抱える問題に、優等生なりの、爺なりの、お姉さまなりの視点で向かい合うことで、問題の深層に無理なく立ち入っていくことが可能となり、またチャネラー自身、アクセスする霊的存在と公平な関係性を維持し、自身の資質を最大限に発揮できるという恩恵を被る。せっかくチャネリングを嗜むのなら、チャネル対象は可能なかぎり多岐に渡っているほうがいい。プレアデス人もシリウス人もジャイアント馬場もと、あらゆる個性と交流できるほうが楽しいし、心身の風通しをよく保つという意味でも、固定されたひとつのキャラクターに執着するよりも幅広いスペクトルの情報と広く浅く戯れるほうが得るものが大きいのだ。

◇参加者との対話でグルーブを生め!
 セッション参加者とのインタラクティヴな対話も重要だ。先に人格の機能を「インプットに対しアウトプットを選択する自動応答アプリケーション」と捉えたことを踏まえれば、プレアデス人とてチャネラーやセッション参加者との交流によってその個性は刻一刻と変化していくのであり、決めセリフや定石パターンというかたちでチャネラーに沈着しがちな「クセ」を常に回避しながら、その存在の自由さ、軽やかさを確保しなければならない。セッションが参加者全員の充分な交流、対話によってバランスよく進行していれば、参加者とのインタラクティブな関係性が「審神」の役割を果たし、チャネラーとチャネル対象を常にいい方向へナビゲートしていくのだ。

 一方通行的なメッセージの垂れ流しはチャネラー、チャネル対象、セッション参加者の関係を不自由にし、神秘化のプロセスを加速してしまうし、チャネラーというメモリーに格納された限定された情報だけでメッセージを組み立てていけばものの数分でネタ切れ状態となり、あいまいで退屈な宇宙論や高慢なご神託に埋没してしまうだろう。常に動いていく関係のなかで、一瞬一瞬の機微に折り込まれた情報に軽やかにアクセスし、開かれた情報の流れとフィードバックを確保することが重要だ。台本のない即興劇に偶然というエネルギーを供給するのはインタラクティヴィティであり、まさにこの点において、参加者、チャネラー、そしてチャネル対象をも含めた「グループセラピー」としてセッションが機能するのである。

◇さいごに
 チャネリングセッションは、「はじまり」と「おわり」の節目をきちっとつけることが大切だ。「こっくりさん」のような、特別なお出迎え・お見送りの儀式などは必要ないが、チャネラーとセッション参加者の意識の同期をとる程度の簡単な、はっきりとした合図をもってチャネリング空間と日常空間の区切りをつけることは、セッションのクオリティと日常生活の健やかさの双方にとって必要なことだ。軽く手を打って「はい、プレアデス人でーす!」と勢い良くはじめ、「んじゃ、バイバイキーン!」と元気に言い放って再びパン!と手を打ち、小気味良くセッションを閉じるなど、各自工夫して気持ちいいテンポをつかんで欲しい。この「開始と終了」のステップさえはっきりと行えば、セッション自体はいついかなる場でも可能だ。合コンの席の余興として、じゃんけんでチャネラーを決めて行う即席セッションなども楽しいだろう。

 チャネルする対象は、自由に設定してかまわない。チャネラーがアクセスする情報は死者の霊などとは異なるフェイズの「サイバーインフォメーション」なので、いま生きている友人や家族でも必要な礼儀さえわきまえれば充分に可能だ。まずは個性的な友達やテレビタレントなどからはじめて、次第に宇宙人などの込み入った設定を試していけばいいだろう。チャネル対象の設定は基本的にインスピレーションと創作で構
わない。その設定から生まれるメッセージのクオリティこそが重要なのであり、どんなに偉そうなキャラを扱っても、なんか不穏なことをいってきたり高飛車な態度をとるようであれば、躊躇せずに拍手一発でチャネルを遮断するよう心がけておくことも大切だ。あらゆる設定から常にコンディションのよい情報を引き出せるまで熟達してしまえば、その対象が実在するか否かはさして重要ではなくなる。

 チャネリングに限らずあらゆる霊的メソッドが陥りやすい罠は、うかつな神秘化だ。チャネル対象があるひとつの支配的な人格に固定されたり、チャネラー、チャネル対象、セッション参加者相互のインタラクティヴィティが充分に機能していないと、遅かれ早かれこの神秘化というプロセスが起こり、チャネラーとチャネル対象の風通しのいい関係が損なわれてしまう。神秘化されたチャネリングは次第に風変わりな新興宗教と大差ないものとなるし、神秘化されないにしても相互の関係が「なじみ」となってなぁなぁの関係が続くことで、チャネル対象はチャネラーの意識と同化してしまい、なんら霊的インパクトのない「退屈なやつ」へと退化してしまうだろう。

 チャネリングとは、いうなればゴッドサーフィンの技術なのだ。ハイアーセルフ、銀河連合、ジャイアント馬場等々、あらゆる精妙なバイブレーション、意識の上位スペクトルに自由自在にチューニングし、アクロバティックな技を連発しながら波から波へと跳躍していくこと、その軽やかさがチャネリングの魅力だ。この奇妙で楽しい「コミュニケーションゲーム」を存分に楽しむために、まずは自身の波乗り感覚、様々な霊的重力場に足をとられることなく泳ぎ切るしなやかな筋力とセンスを磨いておこう。

(2000年)
posted by bangi at 01:24| Comment(0) | 詩と芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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