2007年02月18日

花柳流と雨月物語

国立劇場にて花柳流の発表会を拝見した。

おれは常々「身振りとは社会性、政治性と切り離せない」という観念を抱いてきた。つまり、我々が往来でどのように歩くか、どのようにお茶を啜るか、どのように不快感や賞賛の意を表現するかは、幼少の頃から我々の身体OSに書き込まれる社会的コードによって規定される、ということだ。

もったいぶった言い回しをしなくてもそんなのは当たり前のことで、子供=身体は行儀の良し悪しと懲罰の体系によって鍛錬され、大人=身振りを獲得するのだ。このように獲得された身振りはもちろん、その身体を取り巻く社会的文脈とポジションを示す刻印となり、好むと好まざるを問わず万人を無言の政治力学の場に配置する。

おれはどちらかというとこの「社会的な身振りの体系」を疎ましく感じ、いかにして自分のからだに染み付いた社会的コード、身体言語を文字通り「解体」していくかという問題意識を持っていた。野蛮人の、美しき野蛮人のからだへの憧憬は、自然に舞踏への傾倒へと結びついた。剃髪・白塗りによってゼロ地点へと引き戻された身体から幻、亡霊として浮かび上がるからだの映像こそが、社会性と政治性を軽々と飛び越えるフェアリーテイルの魔力を持ち得ると信じて疑わなかった。

しかしまた、剃髪白塗りというコードがまことに貧乏臭く運用される現場もいくつか目撃し、またそれを逆手にとって、あり得ないのだけどあったかもしれない幻の様式美を描き上げ、劇場をこの世とあの世のインターフェイスとして蘇生させるようなヤバイ作品とも出会って、身体と言葉と社会に張り巡らされたコードからの逸脱の戦略は、さらに複雑で精妙でなければならない、と思い知った。

今はなき舞踏集団、白虎社の合宿稽古に参加した14歳の夏を思い出す。踊りの稽古というよりは兵士のしごきのような、秘儀伝授なのか悪意の発散なのか判別つかない異様で逃げ場のない空間で、もう一歩も歩けない、立ち上がれないという究極の疲労、衰弱の果てに、からっぽのからだの中にふっと風が吹くような感覚が突如ひらめき、精神的にも身体的にも臨界点を超えた「ハイ」な状態に突入した。ダンサーは、攫われて、風と会話できる存在に生まれ変わる、そんな意味の土方巽だか大須賀勇だかわからない舞踏家語録を、文字通りからだで実感した。思えばすごいイニシエーションの技法体系だ。

ともあれその14歳の夏のからだは今もおれのなかに息づいていて、怠惰と悪癖にまみれた日常のなかにも突如として蘇る。本当に得がたいものを得た。当時は憎い禿頭連中でしかなかった白虎社のダンサーがたには、心から感謝している。

話はとりとめなく前後するのだが、実は14歳当時のおれに社会的なコードとしての身振りなど、ほとんどこびりついていなかった。家の躾はどちらかというと厳しいほうだったが、コンセプトさえ強靭であればモヒカンし放題、ドロップアウトし放題で容認されていたし、転勤を繰り返しつつ突如農村に移り住むことになった境遇を呪う母の田舎嫌いに感化され、土地の身振り、方言、付き合い方などをあからさまに敵視するように挑発的に振舞っていたのだから、身体政治力学的には異者、河原乞食そのものであった。

またそのような河原乞食の身体言語、身体政治学を熟知していたおれは、転校初日に不良グループに呼びつけられ、すでに一人歩きしている数々の伝説とともに賞賛され、一度も喧嘩することなく「舎弟」をあてがわれるほどに、自身の身体ー情報の放つアウラを巧妙にデザイン、運用していた。田舎の既存の身体コードに素直に準じていれば、喧嘩という儀式を経た後に然るべきポジションに配置されていたはずだが、堅牢なコード体系なればこその、異者、闇、理解不能な意味的エラーに対しての脆弱なセキュリティホールを突いて、おれは見事に地元こども社会をハックしていった。

自慢にもならないが、これは幼少から転居転校を繰り返したおれが自然に身につけた身体政治力なのだ。異者として振舞え。物語の外に出ろ。はじき出される前に逸脱せよ。おれが少しでも場、土地の持つコードに従順であろうとしていれば、おれが獲得できた唯一のポジションはいじめられっこであっただろう。いじめを苦に自殺する子供が後を立たないが、いじめる側もいじめられる側も、死に至る物語に取り込まれているのだ。物語の是正(死に至らないストーリーへの変更や、醜いアヒルの子的なパラダイム転換)は、身体政治学的には無意味だ。身体とはあらかじめ特権的であり、いじめっこもいじめられっこも自身の特権的身体の政治力学にがんじがらめなのだから。星と星のぶつかりあいに、政治的正しさPolitical Correctnessなど何の効力も持たない。

物語そのものを疑い、その外にでるという行為が、なぜ自殺するよりも困難なのか。うかつなことは言えないが、自殺してしまった子供たちにとって、死、あるいは死後の世界こそが唯一の「外部」であったのだとすれば、翻って彼らの「生」の社会の平坦と閉塞に背筋が寒くなる。暴力はいつだって究極の政治力だ。しかし暴力もまた、然るべき社会的コンテクストによって管理されている。その基幹システムをハックしてしまえ。君たちは暴力の映像を自在に編集し、編集権を持たない視聴者をだしぬくことができる。事実、現代の究極の暴力としての戦争は、映像によって遂行されるのだ。その暴力の映像、映像の暴力どちらでもいいが、それが沸き起こってくる原初点はすなわち「からだ」そのもの、アストラルなイメージと感化力によって柔らかく千変万化する、我々をつつむ薄皮としての身体、そのアウラにある。からだを鍛えるということは、筋骨を硬くすることだけではなくむしろ、風と会話する妖精のような飛翔力、自在性を獲得することでもあるのだ。


閑話休題。えーとなんだっけ。
花柳流発表会の楽屋では、年のころ10歳にも満たないようなちびっこたちが、腰を落とし、しなりと美しい曲線を描いて姿見に映る自身の身体言語を厳しくチェックしていた。躾とは、美しい身と書くように、まずもって幼少からの真っ白な身体に有無をいわさず塗りこんでいく身体コードのことだ。そして伝統とは、身体に刻み込まれたコードの伝達に他ならない。

身体を、意志をもってデザインすることを知っている踊り手たちは、平坦で閉塞した物語など軽々と飛び越えてなお新たな物語を演じる創造力の源泉に触れ、その守護者となる。そのような創造的なからだを獲得するには、おれのように徹底した逸脱へと挑む路と、伝統への参入により考えうる最も美しいコードを寸分違わず書き込んでいく路がある。いずれにせよからだが媒体となって保持・伝達・創造していくそれこそが文化であり、それは成金乞食が悪意をもってどうにかしようとしても触れることすらできない、より大きな物語である。その大きな物語を感じ、時代を超えて開き読み解き伝達していくためのブラウザー、デコーダーは、やっぱり身体なのだ、というお話でした。バイチャ!

今日のYOUTUBE
ノイバウテン+石井聰亙+白虎社「人間半分」
http://www.youtube.com/watch?v=hlc0iYSFkow

笠井叡「愛しのジャンポール」IN NY BUTOH FES 05
http://www.youtube.com/watch?v=G0Uc_URCiBg



posted by bangi at 23:39| Comment(3) | TrackBack(0) | 詩と芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
忘れてた。その後溝口健二の「雨月物語」をみてまたいろいろ思うところあったのだが、また今度な。

http://www.kadokawa-herald.co.jp/mizoken/
Posted by bangi at 2007年02月18日 23:42
あえて異端であること
その防御力の凄まじさは
ジプシー的生活者として良く分かる
Posted by Raven at 2007年02月19日 11:22
ぶっちゃけいうと異人てある種の層にモテるんだよね。ある種の層てのが厄介なんだけど。異人だらけの街はモテないけどやっぱ居心地いいわ。
Posted by bangi at 2007年02月19日 23:23
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