いい具合にチープな映像が、むしろ制作陣のマジなセンスを伝える。
スーパー観たいぜ。
しかしDV24Pでのインディフィルム制作はすっかり定着したようだ。
大変面白そうなこれもそうだし。
"crossing the bridge"
http://www.alcine-terran.com/crossingthebridge/
面白ければ視覚的な解像度は脳が補う、という単純な事実が、ようやくインダストリーの思惑を追い越したということか。
音楽と一緒で、制作環境に金がかからなくなって、誰でもがテクノをつくり映画をつくる。あとはアウトプット、ディストリビューションだが、そんなのはSNSとYOUTUBEで事足りる。もうマスメディアには何も残っていない。
ネットメディアはマスメディアと違って「サーチ」しなければどんな情報も得られない。勿論サーチいらずの「テレビみたいな」ネットメディアに固執する向きもあるが、ふと見渡すとそんなことに固執してるのは日本の業界だけである。そしてその目論みは必ず失敗する。必ず失敗する。2回書いとく。
さて、チャンネルザッピング以上に能動的な行為であるサーチが情報交通の通行手形となるのなら、情報空間/意味空間のデザイン主導権は勿論、量的資本から質的知識Knowledgeに明け渡される。また広告コミュニケーションの成立が受け取る個々の脳内での意味解釈に依存する比重が高まるので、広告手法の基点は「如何にみせるか」という“明示された面”のデザインから「如何に体験させるか」「如何に想起させるか」という“暗喩の空間”のデザインへと移行する。
まーそんなのも既に始まってるわけで、SNSやSecond Lifeなんてまさに「空間」そのものを提供している。ただその空間に貼付けられた広告があいかわらず「面」のトポロジーに縛られているのと、空間自体に金を払う商品価値がある、という錯誤のおかげでトンチンカンな方向につやつやベンチャー野郎どもが千鳥足で爆走しているのが滑稽である。
メディアはメッセージだ。空間もまたメッセージだ。電子的に生成された空間感覚に広告を貼付けるのではなく、空間それ自体がある意図を伝達するためにデザインされたプロダクトになりえるのなら、そのなかで広告はよりいっそう不可視になることを望むだろう。アトモスフィアに溢れた、暗喩の空間。それこそが理想的なメディアであり、思考と帰結、共感を誘発する(現在時点での)究極のマーケティング装置だということ、そしてそれをデザインするテクノロジーは意味建築空間のハードウェア/インフラと、象徴と暗喩というソフトウェアが不可分に融合したものとなり、まわりまわって占いや幽体離脱、テレパシーやシンクロニシティなどに関するセンス、身体感覚、拡張神経感覚が問われることになるだろう。ここにおいて、文書と建築、意味と体験、コモンセンスとオカルトゥス、地図と領土、すなわち意識と無意識、は溶解する。(少なくともあるレイヤーにおいては、ね)
おれはいまのところ極めて楽観視している。80年代から00年代にかけて、日本の文化状況においてはこの部分が最も貧相でどんな経済層も形成されていないからだ。不可視の意味構造体にアクセスし、解読し、エンコード/デコードを前提としたコミュニケーションセンスを持つ層は、ニューエイジとかLOHASとか電波とか主婦などとカテゴライズされ、マーケティングの視界から遠ざけれている。ニューエイジやLOHASや電波という表層そのものが、そうではない側の想像力の境界面に結像する「魔女」でしかないのだが、そんなことを「教会」が認めることは不可能なのだ。今後しばらく続く日本の広告屋、マーケッター次世代たちは、自分たちが何を見落としているのかも、何を避けているのかもわからず、絶望と欺瞞とヒステリーに埋没する魔女マーケティングに没頭するしかないだろう。しばらくはおれの天下だウェーハッハ。
いやいや、みんなで盛り上げてこうよ。
http://www.number23movie.com/
その通りだと思います。
>>、空間それ自体がある意図を伝達するためにデザインされたプロダクトになりえるのなら、そのなかで広告はよりいっそう不可視になることを望むだろう。アトモスフィアに溢れた、暗喩の空間。それこそが理想的なメディアであり、思考と帰結、共感を誘発する(現在時点での)究極のマーケティング装置だということ、そしてそれをデザインするテクノロジーは意味建築空間のハードウェア/インフラと、象徴と暗喩というソフトウェアが不可分に融合したものとなり、まわりまわって占いや幽体離脱、テレパシーやシンクロニシティなどに関するセンス、身体感覚、拡張神経感覚が問われるとなるだろう。
素晴らしく簡潔にまとめられてて感心します。特に後半のまわり回って〜以降の部分をどう織り込んでゆくかが問われると思う。そこがオカルティストの面目躍如な部分なんでしょう。如何にあらゆることから自由で遊んでいられるか、ってかんじもしますね。
などという時代はすでに過去のものになった感がありますね。
フリーマガジンという最も「面」のメタファーに縛られた媒体を作っている身としては、
変わりつつある媒体や広告のあり方とどうやって折り合いをつけるか、
そして、この先これでおまんまを食べていけるのかという非常にパーソナルな悩みが尽きません。
せめて、医療や保険制度という名の聖書の呪縛に、
風穴をあける自立した媒体になりたいと思っております。
毎度毎度軽やかな論調に拍手を送りたい。
自由さとか遊びとかって、不可視であること、Identifyしないこと/されないことと関係がある気がします。そして西洋を常にVisibleで明確で強固にIdentifyされたものとして捉えてきた日本の文化咀嚼能力の限界が、オカルトやハッキングや海賊(あぁこうして書くとどれも禍々しいけどw そういうニュアンスじゃなくて)に対する理解と咀嚼の障害になっている。個の確立という西洋の流儀を、VisibleでIdentifyされること、という勘違いというか。というわけでInvisibleなIndividualとしての海賊は来ますね。あーもう来てるか。
>>719
意味空間にも面の表層は必要ですが、コマーシャル/パーソナル/トランスパーソナルコミュニケーションはそれぞれの思惑でそこから戦略的に撤退するだろうな、という感じ。
紙媒体は逆に、強固な面のメディアとして重要性が際立ってくるでしょうね。それこそ医療とか政府公報とかのイメージですが。医療情報や政府公報が暗喩に満ちてたらヤだもんねw
僕も子育てフリーペーパー画策中。
Public <Personal>Individual
Difinition<<>>Intuition
Symbolical<<>>Metophorical
かな?あってる?
やつらは必ず失敗する。
って俺も1回言っておく。
やつらと一緒に俺も逝く。
なんてな!
このお話はいつか会った時に直接聞きたいな。
>>紙媒体は逆に、強固な面のメディアとして重要性が際立ってくるでしょうね。それこそ医療とか政府公報とかのイメージですが。
この業界に飛び込んで、ソーシャルサービスはやっぱり特殊だなと心から思いました。
強固なメディアとして最終的に選択される媒体を目指しているんですが...
>>僕も子育てフリーペーパー画策中。
うひょーおもしろそう。
ゆうだいくんにまた会いたい!