テネシーウィリアムズ短編集。
なんかどれもオチがつかない話だなーと思ったが、テネシーウィリアムズの戯曲とはそういう感じなのだろう。読んだことないけど。淡々と個人の関係性を描き、特にクライマックスも解決もないまま放り出す感じ、そこに味わいや時代性がある、ということは分かった。
しかしまた、その戯曲の構造は俳優や演出家が積極的に登場人物のキャラクターを解釈し、創造すること、が演じる上で必須であり、また作者の意図もそこにあるのでは、とも感じた。与えられたテキストをありがたく頂戴し「作者はなにを伝えたかったのか」などと不毛な詮索をするのではなく、設定された状況のなかで、役者なりの、演出家なりの、時代なりの「即興」が挿入されてはじめて成立するように作られている気がするのだ。アメリカ人俳優の強烈な主張と、サクセスドリームを熱源とするショービズエンジンの過剰なエネルギーをポジティブに運用するトンチのようなものが、このアンチクライマックスな戯曲(の枠組み)のエッセンスなのではないか。その仕組みをもって、再演される度に新しい戯曲、アンチクラシックの戯曲、それががテネシーウィリアムズの目論んだものである気がする。読んだことないけど。
劇場で観た小話にオチがなかったのは、演じる側に問題がある。
オチ、ドラマ、エモーションは、俳優と演出家がその都度、加えるものなのだ。
「わたしにとって、ローズ伯母さんはこういう人」「おれにとって、この話のキモはここ」「今、この作品はこういう意味」という主張を注ぎ入れなければ、舞台の上にあるものはただの枠組み、空っぽの器なのだ。空っぽの器を眺めて「いやはや、しぶいでござる」と悦に入る数寄な趣味もあろうが、テネシーウィリアムズの器はそういう意図ではつくられていない気がする。
なぜこのような空転が起こるのか。彼ら老舗演劇人(妻は「演劇界の妖怪たち」と呼んだ)のテネシーウィリアムズへの、否輸入文化全般への誤解がその原因にあるのではないか。彼らはテネシーウィリアムズを「クラシック」として扱う。2007年にそれを東京で上演することの意味を「現代にも有効であり続けるクラシック」として見いだしている感がある。
しかしながら、テネシーウィリアムズの描く世界はベトナム戦争、気の触れたヒッピー、とある東京のホテルバー、など、当世風の「ポップ」な要素に溢れている。深入りしすぎないセリフやストーリー展開も、社会の病理の告発といった重さよりも、ウォーホル的なポップコラージュの粋のほうが、おれには感じられる。一言でいえば「お洒落」。テネシーさん、あんた、お洒落でしょ!でしょ!読んだことないけど。
演劇界の妖怪たちは、そういう軽薄でポップでお洒落なものを、べちゃっと重くウェットなものにしてしまう。ジャンキーヒッピーの無意味な死に「人間性からの社会への告発」などそもそも込められていない。そもそもないものをあるのではないかと勘ぐりながら演るから、成立しない。空転する。
ぐだぐだとつまらぬことを書いてしまった。
そもそもおれにとって芝居の快楽は、なんか難しい顔した演出家や脚本家には関係ない。舞台の上に溢れだしてしまっている役者の身体、アウラ、それとの出会いだ。だからこのテネシーウィリアムズ特集がどんなに的外れでヘコいものだろうとどうでもよかった。妻の知人女優は唇を突き出してぷーと膨れるのがよかった。おれは女性の口元に興味を惹かれる。昔一緒に回転寿司を食べにいった知人女性が、マグロを半分口からだしてくわえた歓喜の表情に、おれは危うく恋に落ちるところだった。いや、その瞬間、そのマグロ込みの口元に、恋に落ちたのだ。おれにとって恋というものはそういうものだ。だから当然、ぷーとおかんむりな女優の一瞬の表情に、入場料のモトとったり、と大喜びだ。いいよね、ふくれっつら。
そんなふくれっつらが魅力的なミス・シンプルを誘惑する「生命商事」のサラリーマン、わかりやすくいうと笑うセールスマンの善玉版、を演じる俳優が、これがもうなんていうか、気持ち悪い。彼は小市民的な日常に知らず内に閉塞されているミスシンプルの魂を、ささやかな反抗、自由への逸脱へと誘惑する「いけないひと」なのに、俳優が青白く挙動不審で滑舌の悪い僕ちゃんだったせいで、大変難解な芝居になってしまっていた。ミスシンプル、なんでそんな気持ち悪い奴に言いくるめられて決意する!? テネシーウィリアムズはこれで何を言いたいの!? やめて欲しいそういうの。芝居の本筋と関係ないところで迷わすのは。
目の前で展開する結果的に難解な予想外の不条理劇を適当に追いながら、おれは想像のなかですでにおれを登場人物として挿入した「おれのテネシーウィリアムズ」を上演していた。おれはあの青白い生命商事セールスマンが敵視する「死神商事」サラリーマンとして登場。約束のルート77でミスシンプルは、そこにいる筈の生命商事サラリーマンではなくおれと出会う。
「ご婦人、やられましたね。最近、あいつの口車に乗せられてここまでやってくるあんたのような人が多いのさ。」
「あなた誰? 私の自由はどこ?」
「自由。ふ、ご覧なさい、あんたの目の前にたんとあるさ。あんたはちょっとした軽業をやったり、聴いたこともないでたらめな歌を一寸だけ口ずさむつもりでこんな町外れまで飛び出してきたんだろうがね、ここにあるのは軽薄な偽善者サラリーマンがうら若きご婦人を荒れ野にほっぽり出す自由、そして世間知らずのご婦人にはちょっと刺激の強い自由を破廉恥に展示して頬が赤らむのを鑑賞する自由、などなどさ。申し遅れました、私『死神商事』のバチアタリ、と申します。お見知りおきを」
「ひえー死神商事!私をどうする気なの!くわばらくわばらあわわ、、、」
「ミスシンプル、ご安心なさい。我々が取り扱う商品は、どのみちあなたのような世間知らずのお嬢にはとんと関係ないものでしてね。我々扱うのは怒り、絶望、犠牲、陰謀、罠、幻をみる薬、甘い猛毒、そういったものでさぁ。しかしねミスシンプル、本場物の自由って奴はこういったものごとなのですよ。ご覧になったことはございませんでしょうがね」
「そんなものが自由だなんて嘘よ。私は樫の木が囁く生命のうたを聴くために、あの牢獄を飛び出してきたのよ。そんな邪なものではなくて、、、」
「本当ですかね。あなたが飛び出してきた牢獄に、毒や罠や裏切りは溢れていましたか?」
「……」
「むしろ、樫の木がささやく生命のうたとやら、生きる喜び、明るい光、そういったガラクタが充満していた筈だ。そしてあんたはそこを飛び出した。息苦しくて、もうここには居られない、と信じてね」
「……嘘よ」
「ミスシンプル、あんたはなにか予想外の、全くみたことも考えたこともないような、新しいなにかを求めてここまできたんじゃないのかね? ここにあんたが予想したどおりの、期待したとおりの自由とやらがあったら、あんた満足しただろうかねぇ」
「詭弁だわ。私が求めていたのはそんな爛れた闇じゃない。わたしはちょっと軽業をしてみたり、でたらめなうたをでたらめにうたったりできれば満足だったのよ」
「そうだろう。あんたにはそれくらいが丁度いい。さぁ、ちょっと軽業を楽しんで、でたらめな口笛を吹いて、気が済んだら街へお帰りなさい。」
「……なぜだかわからないけど、なんだかバカにされてるように感じるわ。わたし、あなたにそう言われたからっておずおずと帰るわけにはいかないわ」(ここでぷー)
「上等だシンプル!君のそのぷぅと膨れるホッペタに、本当の自由てやつが詰っているんだ。ホッペタが膨らめば、そのなかで君の舌はなめらかに動くだろう。上あご、下あごを舐めまわして、微かな血の味を感じるだろう。君の真っ赤な舌がずる賢い蛇のようにはいずり回れないような、しぼんだほっぺたにおれは興味がないんだ。さぁもっと膨らんでみせておくれシンプル。舌に乗せる錠剤は、甘いの苦いのたんとある。鳩もいれば蛇もいる。うちのカタログをご覧なさい、こいつがハーレーダビッドソン。こっちが悪魔を呼び出す呪文の書、こちらは時間旅行免許証、もちろん偽造さ。時間警察のお偉いさんにちょっと握らせて横流しさせたもんだから、ばれやしねぇ。」
「ちょっと待ってバチアタリさん。わたし、時間旅行なんて出かけないわ。しかも偽造免許書なんて」
「へぇそうかい。じゃここでお別れだ。ご機嫌ようミスシンプル」
「待ちなさいよ!あたしをこんな荒れ野にほっぽり出していくつもり?」
「ああそうさ。君にはそうする自由がある」
「……正直、自分でもよくわからないわ」
「ほっぺただ。ほっぺたをもっとぷぅと膨らませて、舌舐めずりをするんだ。血と唾液と秘密の体液の味を感じるんだ」
「そんなこと…できません!」
(ここでぶちゅー)
「嘘つきめ。」
「………」
しかしまあ私的にも、彼女の魅力って叫んだり、ふくれっつら見せたりなとこで
それが見せれたから満足。
しかしありゃないよ。妖怪達。
フリーだからいろんな劇団に混じって出てるんだけど、今まで見た中で最悪。
つーか、私は彼女が見れればいいってとこがあるから、
こんな長い批評をする君って愛に満ち溢れてるね。
きてます
イーグル
放射しまくり
だとおもう。
我々が「不在」という概念をもっと素直にカジュアルに扱えるようになった時、カスタネダの一連のテキストは再発見される。カスタネダの投げかけたものは、ドンファンを信じるか否かではなく、ドンファンが不在するそのありさま、作法、方法論なんだ。それをよく見て、手本にして、君らも不在を実践してみよ、と彼の学生たちにあたえた奥義書、TEXTなんだ。と思う。
カスタネダの直接の教え子世代のうち幾人かはCIAに、幾人かはアルカイダに、幾人かは広告屋に、幾人かはIT技術者になった。神秘家になった者は一人もいなかった。そういうことが公になってくるでしょそろそろ