子供が生まれたらシュタイナー教育を受けさせたい。
別にシュタイナーの方法論に全幅の信頼や信仰を寄せているからではない。むしろシュタイナーの教育メソッドに日本人の身体、霊性をあてはめていくことが不可能であることこそが、シュタイナー思想の必然的な帰結であると考えてもいる。
おれは小中高と公立学校に通ったが、ただの一人も、魅力的な教師に出会わなかった。小学校低学年時代の担任は、斜視が激しい中年女性教師だった。転校初日、おれは大人も子供も早口で話す方言がまったく理解できないで困惑していた。彼女はおれにぐっと顔を近づけ、おれが硬直している訳をなんとか聞き出そうとした。が、目はおれをみていない。そして早口の方言。それもかなりディープな方言だ。勿論、おれは号泣。「恐怖」や「不満」ではない、「謎」からくる号泣だ。この原体験が、おれの神秘趣味の源なのだろう。
思い返すに、あれは敵意だ。おれを泣かそうと、わざとそうしたのだ。おれが彼女の立場なら、まず聞き慣れない方言が困惑の原因であることは容易に察することができた筈だ。そして、自分が生まれてから一度も地元を出たことがなかったとしても、もっと平易な、標準的な日本語に近づけて話す努力をした筈だ。(彼女は国語教師だった)
しかし彼女はそうしなかった。あくまで、脅迫的に、土地の言葉で10才にも満たないよそ者の子供をやりこめたのだった。至近距離で理解できない言葉を威圧的になげかける斜視の中年女。その時、彼女自身、自らの斜視に武器としての官能性をほのかに感じ取っていたかもしれない。おれはそこに田舎、それは地方都市とかいうことではなく、Universalの反意語としての「田舎」の闇をみた。あれは暖かさとか素朴さとかいうものではない。闇だ。
百歩譲って、彼女がその素朴さ故に考えが至らなかったのだと好意的に考えてみても、そのような愚鈍な人間を教育の現場に投入するに至った制度的な問題が指摘されるべきだろう。大人たちはいったい、なにをしていたのか。
その後、彼女は偏執的なまでの宿題を課し、それがPTAでも時々問題となった。次第に地元共同体からもある種の変人として疎まれはじめた彼女は、過剰な宿題に真っ先に抗議したうちの母親に「いまではみんなが私を疎む。こうして話をきいてくれるのはあなただけだ」とこぼすまでになった。おれに憐憫の情は涌かなかった。彼女のなかで、なにか気づきや反省、成長があったのかも知れない。しかし、おれが直感的に感じ取ったのは、強きにへつらい弱きを挫いてきた田舎女が、自分がまさに弱き者の立場になった時に、かつて敵視していた「よそ者」にすがる、まことご都合主義的な悲喜劇だった。
そんな彼女とも、時にはともに笑ったり、クラス一丸となって運動会に取り組んだりした。大人となった今では、彼女が幸せな人生を歩んでいることを心から願う。しかし、彼女は果たして教師だったか?と考えると、それは否だ、と断言できる。おれが彼女から学んだこと、それは癇癪と意固地さ、狭い土地で育まれる狭い了見、近視眼的で理念なきポリティクス、そのようなものの塊に、時として人はなれるのだという心暗くなる現実だった。そんなものを身をもって提示することが、果たして教師の仕事だろうか。
まぁいい。中学高校時代には、特に印象に残っている教師はいない。みんなサラリーマンよりたちの悪い、田舎公務員だった。ただ一人、その後教職を辞されてから県立図書館長に就任されたという社会の先生は、進路希望調査に「某大社会学部」と記入したおれに話しかけ、ニューアカってなんだ、現象学ってなんだ、とかのいうおれの混沌とした質問に真面目に答えてくれた。高価な現象学選集をまるごと貸してくれた。読まなかったが、感謝している。
あの人は、教師というよりも、おれの「やってられるか」な気分を「おれもそうだけど、まぁ立場あるからな」とにやりと笑って受けかえしてくれた最初の「おとな」として印象に残っている。おれが切り盛りしていたライブハウスに、説教ではなく酒を飲みにきてくれたのも彼だけだった。年齢や立場を超えた微妙な仲間意識を共有できたこと、そういう「おとな」のありかたもあるんだな、と知らしめてくれたという意義は大きいが、果たして教師の職分とはそういうものだろうか?当然それも含まれるが、核心はもっと別のところにあるはずだ。もっとこう、教え導き、規範を示す、凛とした美しさ、が。
その他の教師はまったくとるに足らない。ある生活指導担当の教頭だかなんだかは、休学届けを提出した直後のおれを校門付近ではがいじめにし、にやにや笑って「逮捕じゃー」と宣った。おれの伸びすぎた天然パーマが「罪状」だったのだろう。すでに職につきタウン誌に原稿を書いて社会と関わっていたおれは、なんかこう、ただただ、哀しくなった。そして、おれが今しがた休学届けを提出してきたこと、つまり校則とかそういうものとは既に関係がない立場にあること、を説明すると、彼は「なんだ、そうか。ま、元気でな」とつまらなそうに立ち去った。彼の「生活指導」や「逮捕」が、どんな理念とも関係ない権力ゲームでしかないことを、あれほど悪びれずあっさりと認めたおとなは彼がはじめてだった。ていうか、なんでそういうのしかいないのよTKSM県。ちゃんとしろ。
一応、おれも子供時代には「熱中時代」での水谷豊の熱演に心弾ませた世代だ。教師に対してあらかじめ偏見があったとは思わない。むしろ、ハウス家庭劇場のアン・シャーリーが黒板でギルバートを打ちのめしたりその後教師になったり、そういうった事柄がおれにとっての「学校」だった。シュタイナーの教育論にも、その香りが感じられる。
しかし、だ。おれが目にしてきた現実は全く違う。そして現在の日本の教育現場にまつわる状況も、笑うしかないくらい、違う。つまり、嘘がなんの反省も解決もないまま、嘘として放置されているのだ。本音と建前?理想と現実?これほどまでに地獄的で、致命的な乖離を、笑ってやりすごすことは、叡智などではない。頓知ですらない。白痴だ。
まぁその白痴性に気づいている人たちが増えているのだろう、オルタナティブな教育論に対する関心は高まり続け、様々な試みもなされている。シュタイナー学校もまた、そんな文脈で熱く注目されているようだ。
おれはシュタイナー教育を受けさせたいというよりは、「あれ以外」であればどこでもよくて、様々な選択枝のなかでも割と趣味が近いから、シュタイナーなのだ。
もっといえば、志高くシュタイナー教育に身を捧げる若き新米女性教師に、進路指導だの遅刻が直らないだので呼び出され、議論することこそが、おれの未来の愉しみだ。こどもの名前、親の言動、すべてがなにか不穏な暗号を孕んでいるいけない親御さんとして、ピュアピュアなシュタイナー学校女教師の人生に登場したい。担任が男だったら、まぁ知らん。よろしく頼む。
しかし、一抹の不安もまた残る。
本当に、日本人にシュタイナー教育の実践が可能かどうか。
一部の才能はいるとしても、現場に充分な度量をもった教員が集まるだろうか?育成され得るだろうか?
本来、ニーチェと共振しつつ霊的キリスト、アーリマンとルシファー、善と悪と自由とヒエラルキアが複雑な結晶体を構成するシュタイナーの思想は、日本人にとって最も縁遠い世界観の筈だ。ましてや、その「教育論」となると、日本人がイメージする「教育」とは全く異質ななにかである筈なのだ。
自然に囲まれて色彩豊かに、そういう表層をなぞるだけでも充分に意義のあることだとは思うが、突き詰めて考えていけば、それは危険な掛けか妥協の泥沼のどちらかにしかなり得ない。当然おれは「危険な掛け」のほうにひゃっほうとばかりに我が子を投入するのだが、「危険な掛け」の匂いすら感じさせない、去勢された役所のようなシュタイナー学校なら、むしろ日本的なグダグダ感のなかでさらにタチの悪い問題に直面しそうな気がする。
つまり、こう、なんていうか、今の若い親達、母たちの直感的な危機意識と、その反応は、明晰だと思うし、希望も持っている。が、マクロビオティック、ホメオパシー、自然育児、シュタイナー、といった、現代の「オルタナティブ」が、ある種の女性的な感性によって「どうにか」なっていく感じ、というか、奥歯になんか挟まったような言い方にしかならないのだが、、、 んー。つまりさ。ダメヒッピー。それはダメ。みたいな。
マクロビオティックつったら、あれ完全に神秘思想だよ。居合術みたいな「道」だよ。本来は。
ホメオパシーつったらさ、からだにやさしい、とかじゃなくて、量子はいつも揺らいでいて、粒だったり波だったりする、そんな世界観だよ。
シュタイナーつったら、アーリマンとルシファーの霊的相互作用の直中で超感覚的認識の啓明へ、神の手を借りない人間の自由を追求する、霊的進化論だよ。
みんな、わかってんの? いや、わかってなくてもいいんだけど。女の人はそれでいい。そういうややこしいことは、父親が考えるべきことだ。
そういうハードコアをハードコアとして受け入れることが、日本人は一番苦手な気がする。あらゆるハードコアを「なんかいいもの」に変換してしまう柔軟さは美点だし救いもまたそこにあるとも思うが、バランスを崩せば闇の沼だ。グダグダの沼地を生傷をつくりながら踏破してきたおれは、「なんかよきもの」が「闇の沼」にいとも簡単に変容する「日本性」をリアルに感じている。シュタイナー教育。結構!しかしだ、親がセレマイトだったときに慌てふためいて泣き出すような女教師、ならまだマシだが、「なんですかそれ」みたいなことぬかすシュタイナー教育者など、校門前で待ち構える生活指導教員と大差ない。百害あって一利なしだ。
まぁ、我が子とともに、確かめてみたいと思う。
ころりん村でもいいんだけど、んー考え中。つか子供生まれてないし。できてもないし。
「もし人間が自分の理想世界の内部に充足を見いだすことが出来ず、自分の理想の世界のために自然の手助けが必要だとしたら、なんとその人間は憐れむべき存在であろうか。まるで自然に手を引かれていなければ独り歩きができないようなものである。そうだとしたら、いったいどこにわれわれの神聖なる自由があるというのだ。われわれのつくるものを自然が日々、破壊してしまったとしても、いっこうに構いはしない。われわれはあらたに創造する喜びをもつことができるであろう。」
シュタイナー自伝より。「自然」を「神」に置き換えて読め、とは高橋巌氏。
おれはシュタイナーの次の言葉に大変、信頼を置いている。
ある種の人は意外に思うかもしれないが、おれは結構なシュタイナー派なのだ。
「私は、瞑想によって世界との正しい関係をつかむために、世界は謎に充ちている、という言葉を心の中に繰り返して生かし続けるようにした。認識がこの謎に近寄ろうとするとき、たいていは何かの思考内容で謎を解決しようとする。しかし謎は“思考内容によっては解決されない”。(中略)だから私は自分の心に次のように語りかけた。人間以外の世界はすべて謎である、世界は本来謎の世界なのだ、そして“人間こそがその解決なのだ”と。」
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