2011年04月26日

夢の視覚、リアリティデバイド


最近地震に関する夢をみることが多い。予知夢とかそういう感じではなく、日常の一要素に地震が組み込まれつつあるようだ。

先日みた夢はこうだ。

【部屋にいる時に大きな揺れが来る。それは近々来ると警戒されていた直下型地震で、かなり大きく長く横に揺れるものだった。ビル全体が飴のようにしなり揺れる中「これは流石にかなわん」と本格的な避難を検討している。】

夢で体験した揺れは勿論、かつて実人生で体験したことのないものだった。夢の中ではしばしば、現実には体験したことのないもの、知り得ないものが現れる。夢が睡眠中の脳の記憶の混乱や再構成であるとするならば、脳はどのように知り得ないものをVisualizeするのだろうか。

様々な記憶の断片から「それらしさ」を捏造するのだ、とも推測できるが、それだけでは納得いかないケースもある。例えばこんな夢。

【夜、どこか地方都市の国道を歩いている。空には満点の星空、そして花火がこぼれんばかりに輝いている。】

この夢をみた時は明晰夢状態であったので、ひとつひとつの星々、花火のパーティクル、美しい空のグラデーション、月などが極めて鮮烈にハイファイに見えた。しかしながら、おれは子供の頃から視力が低く、またメガネやコンタクトなども殆ど使用したことがないため、実人生においてこの夢のように鮮明でクリアな視界をもってしてこのような風景をみたことは少なくとも記憶の上ではないのだ。

夢が記憶の再構成であるならば、あの星空と花火の風景もおれの実際の視力で眺めたものと同じ鮮明度で描かれる筈だ。しかし夢の世界にはしばしば、実際の身体を通して知覚される世界「よりも」鮮やかで、美しい、光り輝く光景が現れる。

このことはある種の瞑想行や明晰夢、メスカリンやシロシビン、DMTなどのハードサイケデリック、また西洋魔術におけるAstrral Projectionという技法などにおいて、能動的にイメージの世界を遊歩する際に感得される【霊界】の光景の特徴として古今東西の神秘主義文献において指摘されている。一般に、あの世の光景、夢の世界は、肉体の世界よりも光り輝き魅力的なのである。

【夢の視覚】が脳内の如何なる仕組みで感得されるのかはさておき、この経験的事実からは翻って【リアリティ】とは何か、という問いが浮上する。脳はかつてみたことがあろうがなかろうが【リアリティ】を構成することができる。目を閉じて観る世界は、時に目を開いて観る世界よりも鮮やかで、自由である。【夢の視覚】において人は普段見えない光を観、重力と空間に制限を受けない鳥や魚の視点で遊歩する。網膜の精度や重力の制限の下で感得される【肉の視覚】は、さらに広帯域に拡がる【夢の視覚】のフォーカスされた一部に過ぎないのではないか、夢を観ている脳が覚醒時の記憶を再構成しているのではなく、むしろ覚醒時の脳が、夢見状態の【リアリティ】を圧縮・再構成しているのではないか、という不穏な可能性が、先述のような夢見体験から浮かび上がってくる。

冒頭の地震の夢をみた後、おれは「古代人がみる地震の夢」について考えた。そこではビルがしなりマンションの一室が散乱するかわりに、パンテオンや縦穴住居が揺れ、貝の貨幣や祭壇の燭台が散乱しただろう。たとえその夢をみている古代人その人が、かつてそのような大地震を体験したことがなかったとしても、彼は「恐るべき大地震の夢」を族長に報告できた筈だ。

また、それは必ずしも予知夢としては受け取られなかっただろう。夢のリアリティは必ずしも通常の物理空間のリアリティとリニアで因果的な関連がある訳ではないことも、経験上感じられる。おれがこの時期にみる地震の夢はあくまで日常の一齣として組み込まれたモチーフの浮上、旬のトピックに過ぎないのであって、ただそうでありながらも、おれの脳は自分の知り得ない、かつて知らない地震のリアリティをVisualizeできるのだ。

【夢のリアリティ】では「みえるもの」と「みられるもの」の関係が、通常の時間と空間の制限を越えた次元に拡張される。そこから一階層下がった【肉体のリアリティ】でも、その名残は感じられる。我々は脳内のイメージを外界に投影して「あれはたぶん看板だろう」とか「あの交差点を右折しよう」という風に空間と時間、意味を情報処理している。さらに一階層下ると、そこには【合意されたリアリティ】Consensus Realityが他者との関わりにおいて生成されている。「放射能で死ぬる」とか「でも出社するけどね」や「事故ではありません事象です」といった、社会的リアリティだ。

まーなにが言いたいかていうと、今この【合意された現実】があちこちでひび割れて断層が走ってる、という現象が起きてると思うのね。このReality Divideは当然ある落とし処に向かって再統合してこうよ、という流れになると思うけど、完全に311以前と同じように復元されるかというとそうはならないし、またそうするメリットもないのね。原発、平和ぼけ、情報操作や同調圧力といった様々な「いらないもの」が、この断層によって可視化されているのであり、それをもっとよいものに変容させていく足がかりもここにあるのだから。

まーでもさー、【合意された現実】の亀裂てのは、慣れてない人にはそりゃ不安だよ。パニクっちゃうよね。そんな時はリアリティの階層構造をイメージしてみて、肉体の現実、そして夢の現実という風に自身のリアリティの閾値を広げていくエクセサイズつかリアリティストレッチみたいのが有効かもよ、てこと。それってどうやんの? て話についてはまたいずれの機会にな。

あとこのテーマも勿論深くて、唯識とか「物自体」とかほんとキリがないんだけど、まーなんとなく実体験に即したところから、実践的な夢見術的なアプローチで、今後もことあるごとにまとめてみようかと。例えばさー馬の夢とか。実際に馬みたことない人の夢にでてくる馬がいかにも写真やテレビぽいかというとそうじゃないんよ、てあたり。いろいろ面白エピソードをね。

まー単にiPhoneにBluetouthキーボードつけたらこれ最高てんで長文書きたくなっただけなんです。アディ押忍!


posted by bangi at 17:43| Comment(2) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月18日

こころが、あるきれいな状態

一晩中ビデオをつくり朝帰って夜またくる、そんな数日が続いているとうたた寝の間に微妙に思わせぶりな夢をみる。

こんな夢をみた。

気持ち彩度の落ちた、ブルーグレーの風景。冬の夕方。
画面上手(右手)からさっと風のように女の子がフレームイン。
小柄で丸顔、エスノというか東欧風でヒッピーテイストも感じさせるモダンなスタイルで、手には小さなマンドリンのような楽器を抱いている。後ろ姿を追いかけるので、はっきりと顔はみえない。

彼女はストリートミュージシャンらしく、ブルーグレーの閑散とした雑踏を風のように縫いながら、歌を歌っている。「ともだちの...」という歌詞の断片だけが聞こえてくる。散文的な歌の断片なのだが、その声、ことば、うたには大変説得力があり、「ともだちの...」のワンフレーズだけですべて了解したような、泣きたくなるような、切ない気持ちになる。たったひとこと、たったワンフレーズで瞬間的になにかを、強烈な感化力で人のこころに伝える、振動させる、神秘的なうたのちから、うたい手のちからというものに圧倒される。これが詩、詩人、詩神(MUSE)というものか。

この有無を言わせぬ共感、共振、感化の法悦はどこからくるのか。
「こころが、あるきれいな状態」にあるところから、という閃きを得る。
うたい手は、あるきれいな状態のこころから、聴くものの心に入り込み、共振させる。
うたい手は自ら入神状態となり、神そのものとなって、聴く人の内なる神性を揺さぶる起こす。

現代においてこの神秘的なちからを堂々と行使できるのは、うたい手だけである。
だから革命、暴動、祭祀、戦争、経済活動その他あらゆる「意志の行使」の場で、うたい手は必要とされる。「個」の「自由意志」はうたの陶酔によって麻痺させられ、あとかたもなく溶解されてはじめて、ことばも観念も超えた透明な「真の意志Thelema」へと精製される。うたの錬金術。



夢はこの後、彼女とその一座とともにあちこち歩き回っていくつかの事件、人々と遭遇するエピソードとして続いていくのだが、それはまた機会があれば触れるとして、ブルーグレーの街で出会ったこの少女ミューズについてあれこれ。彼女のイメージは、おれがかつて出会ったあらゆる女性、歌い手の合成イメージだ。とりわけ母、というより母方の血統の匂いが微かに深く感じられる。おれの内なるアニマ(女性性)の、最も現在的な表象が彼女だ、ということなのだろう。

かつて10数年間にわたり夢に繰り返し登場し、あの手この手でおれに対決を挑んできた「古代の邪悪な女の霊」のイメージが、さながら錬金術のように変容・再生した現在結果がかの可憐なる神秘少女であるならば、おれの人生はいまのところまったく問題がないように思われる。

さておき、ではその歌声はどのようであったかというと、おれもそれを具現している、あるいは近い歌声を探してあれこれ検討していたのだが、ディテールはともかく、本質的な部分で「あ、こんな感じ」といえるのが、原田知世が歌う「守ってあげたい」だった。
ちょっと照れる。

夢で聴いたうたの曲調も歌詞ももっと寂しく切ない感じで、むしろ素の「多摩川河原番外地」に近いのだが、知世ちゅわんの声には「あるきれいなこころの状態」の喚起力が強くあるように思えてならない。ユーミンのメロディ、歌詞にもなにかヒントがありそうな気がするが、この曲はデビュー直後の原田知世という類い稀なるシャーマンによって、作者の思惑すら超えたある極み・神的なうたのちからを獲得しているようだ。あーあと、知世女史の面影にはうちの母および母方の親戚筋たちと共通するなにかが見られる。いとこのマキちゃんはふと気がつくとそっくりな気がしないでもない。このあたりは次回の親族会議の議題にあげてみたい。

というわけでいまうちに遊びにくると知世ちゃんの「守ってあげたい」を爆音で繰り返しプレイしながら、内的神性の魔術的変容プロセス、闘争と歌、陶酔と麻痺の果てにたち現れる透明な真の意志、などなどについての熱弁する寝不足気味のおれ、が見られるので興味がある方は遊びにこい。茶菓子か酒もって。以上。


参照リンク:
原田知世
http://www.haradatomoyo.com/

守ってあげたい
http://www.amazon.co.jp/2000-BEST-原田知世/dp/B00005G7MZ/sr=1-1/qid=1169071952/ref=sr_1_1/250-6234735-8246664?ie=UTF8&s=music

素・中ムラサトコ
http://www.kanshin.com/keyword/396033

posted by bangi at 07:22| Comment(8) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月14日

/zengaku

http://www.emotent.co.jp/zengaku/

この男性のフリー素材集があったら、おれは購入するだろう。

関係ないがディレクトリ名、ファイル名の付け方には、人の歴史と心理、ときに組織の政治力学などが読み取れる。
添付ファイルのファイルパスが表示されるタイプのメーラーでは、うっかりふざけた名前のフォルダ(適当に省略したクライアント名など)から重要書類を送ってしまい冷や汗を書いた記憶があるが、そんなメーラーがあったかどうかも心もとない。夢かもしれない。

夢といえば、今朝の夢では10数年ぶりに訪れた場所(10数年前に見た夢で訪れた場所、という意味)で、10数年まえと
同じゲーム(ドライブ&シューティング、ガンとライドの2筐体をいったりきたりして遊ぶ特捜Gメン的なもの)が設置してあり、久方ぶりにと挑戦したのだが、記憶が定かではないがたぶん前回よりも先の面に進めたような気がする。前回は空港から敵の追跡をふりきって街にいくことができなかったが、今回は街の裏街道で味方エージェントから次なるミッションをうけとるところまで進んだ。

おれは現実世界ではかなり記憶力が悪い、というかほとんどなにも記憶しない、しても間違ってるという、かなりきわどくアルツハイマー境界線上をダンスする日常を送っているが、夢の世界では、過去にみた夢、場所、道順などをかなり克明に覚えている。美術館、古書店、航空公園、ゲームセンター、などなど。それらの場所の位置関係も把握しているので、断片的ながら地図も描きおこせるくらいだ。(日常生活での記憶も、おれの脳はなんというか夢と近しいかたちで情報処理を行っているようだ。普段たいていのことは思い出せないが、思い出すとき、それはたいていデジャブというかたちをとる。おれの日常生活はデジャブの連続だ。)
閑話休題。だから今回も、夢ながら「おやなつかしい」「なんだこのゲームまだ置いてあったのか」というすすけた感動が先立ち、夢の夢たる所以のメインストーリーそっちのけで思いで探しとゲーム攻略に熱中してしまった。

航空公園の一角、さまざまな小型飛行機が展示された無人の広場の一角に、そのゲーム筐体はあった。
小学5年生くらいの男の子がゲームに興じていた。おそらく彼は雄大くんだ。雄大くんがゲームオーバーとなった後、おれが挑戦しているとツーリストらしき小太りの若い白人女性が2P側にコインをいれる。遊び方をいまいち理解していないようで、おれは「撃て、撃て、まだ遊べるよ」としきりにレクチャーしながら、協力してなんとかエージェントと接触したのだった。

そもそもなぜその航空公園を訪れたかというと、大きな声ではいえないが死体を廃棄する場所を探していたのだ。
おれは夢のなかでよく死体の処理に困っている。自分が殺したのかどうかもわからないが、とにかく見つかってはまずい死体を携えて右往左往しているのだ。今回は手だれの熟年カップルが同行し、彼らが前回採用してうまくいった手法とやらを教授願っていた。曰く、航空公園は河川公園でもあり、ちょっと人目を忍んで川っぺりに降りたエリアに絶好の死体遺棄場所があり、前回そこに捨てた死体は今も発見されずに完全犯罪が成功しているという。
(一応念押ししておくが、夢の話である)

その熟年カップルの死体処理の方法、怪しまれない運搬方法(彼らは電車で運んでいた!)などはなかなか面白かったのだが、今回はたまたまその遺棄ポイントに休日のオーディオキャンプ(河川敷に自慢のオーディオセットを持ち込み、川のせせらぎや森の音などをなんだか凄いサラウンドシステムで再生して、その中央で夕日を眺めながらくつろぐ、という変な遊び)に興じる若者の一群がいたため、死体は遺棄できなかった。別のポイントを探す過程で先のゲーム筐体設置場所にたどり着き、雄大くんとの2、3のやりとりの後にゲームに興じてみれば、ふと気がつくと熟年カップルはいない。雄大くんもぽっちゃり白人娘もいない。日の暮れかけた航空公園でおれは死体が入っている(と思われる)馬鹿でかいバッグとともに、一人たたずんでいた。

posted by bangi at 09:31| Comment(4) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする