岡山市内でのエネパレ611デモに参加してきた。
http://enepare.blog.fc2.com/東京高円寺での大規模デモに共鳴するかたちで主催されたデモ行進で、勿論岡山ではいわゆる「ニューウェイブ系」デモとしては初とのこと。主催者発表500名が参加。
デモは終止穏やかな雰囲気に包まれていて、整理にあたる警察官も極僅か。都合3人くらいしか見なかったが、3人もいればなんとか仕切れそうな雰囲気だった。
サウンドカーなどは登場せず、各自思い思いの鳴りもので自律的なリズムを楽しむフリーセッションのよう。
路行く人たちも好意的に見守る感じで、ショップの軒先から、カフェのテーブルから、デモ隊との間で笑顔とCheersが交わされる。
高円寺でのデモは先導する杉並警察署の車輛上から終止杉並警察署長が警告を繰り返し、爆音PAを積んだサウンドカー上ではハードコアやフリージャズのバンド、絶叫と雄叫びのアジテーター、イカレ度高めのトリックスターたちという、一種の「殺気立った感じ」がデモのテンションをいい感じに高めていたの(*1)に比べると、岡山デモにはその「殺気」はない。
これはつまり、身体的な危機感の差からくるものであろう。東京では余震も継続し、放射能に対する身体的危機感も誰しもがリアルに感じており、つまり皆「ピリピリ」しているのであり、反原発デモはその身体感覚のテンション上に、「日常」への同調圧力に反抗する極めて政治的意味の強い場であった。
しかし岡山では相対的に身体的危機感は薄く、デモ行進の身体は「戦闘状態」ではなく「合同礼拝」のようなテンションに調律されていく。昔ながらの左翼運動家たちの「闘争的」ビラもまくにはまかれるが、打楽器と歩行リズムによるフリーダンスセッションの前で、その意味は漂白されていく。
おそらく、関東以西の各地方でも同じような空気ではないだろうか。おれはこの点に、今起きている「うねり」の可能性を見る。
いま起きていることは、おそらく、既存の文脈でいう政治行動Political Actionに留まるものではなく、ある種の締念から精留された祈りと、閉塞した世界に穿たれた一点の風穴から吹き込む冷たく新鮮な気流の知覚への率直な歓喜、祭りの予感に溢れた、より混沌として力強く、明るいものであるように思える。
誤解を恐れずいえば、今起きているこのうねりは、21世紀の「ええじゃないか」運動という側面を持っているのではないか。そしてそれはデモの持つ政治的メッセージの切実さとActionの価値を貶めることではなく、むしろ20世紀的なイデオロギー闘争のフレームワークを軽やかに飛び越えていくための、極めて重要な視点、支点となり得る。
反原発デモなんてのは、原発がある限りいつやってもいいのだから、毎月、あるいは隔月、季間と、ずっとやり続ければよい。
そうやって、いわば原発を口実に、集い、騒ぎ、怒りも喜びも身体と時空を介して表現することの「悦楽」を浸透させていけるのではないか。
例えば岡山城下には穏やかな旭川を取り込んだ美しく大きな公園があるのだが、ここが例えば東京代々木公園のような、誰がなにするでもなく、しかしある時には誰もがそこにいるような「場」とはなっていないとのこと。全国地方都市におそらくあるこうした「場」のポテンシャルを解放し、天気の良い日や夕日の奇麗な夕べには公園に集い、飲んだり喋ったり踊ってみたりすることの楽しさを知る人間の絶対数を増やしてしまう、その口実として、今後しばらくはずっと、いつでもやれる原発デモをオーガナイズしていく、という戦略。
そのうちに、デモの「ご当地化」が予想される。オーガナイザーは経験を積み、アジテーターは洗練され、参加者は「どう楽しむか」のノウハウを蓄積していくだろう。最初は「スタイル」を模索しサウンドデモを記号として参照しつつの試行錯誤がペースにのると、おそらく、例えば徳島では阿波踊りの新興連が、高知ではよさこいチームが、青森では若手アーティストによる現代ねぶたが繰り出してくるだろう。反原発というコンセプトは、それを可能とするくらい強い説得力と集約力を持つ。レイブカルチャーが結局はなし得なかった「祝祭の爆散」が、「真面目なええじゃないか」が、もしかしたら、今、可能なのかも知れない。
踊ること、叫ぶことがそのまま祈りであり瞑想であり得るような、そんな精神性と身体感覚を体験的に知っている、ある世代ある層が提示できる反原発の姿勢Attitudeと行動Actionとは、原発そのものよりもむしろ原発利権構造の温存を可能とした現代社会の最も深層にある「なにか」を不可逆的に更新するものであり、その目的の下に、「うねり」はイデオロギーと言語的閉塞の罠に絡めとられることを回避し続ける。さらに誤解を恐れずにいえば、お題目としての「反原発」(*2)に拘る必要もなく、むしろ観念的な「反原発」に絡めとられそうになるその瞬間にいつも、「なにか」を察知する霊感と「なにか」に対峙する身体感覚を取り戻し、新たなる脱出速度に向けて加速しなければなるまい。この世代、この世界、「今」、可能かつ有効なPolitical Actionとはそのようなものでしかあり得ない筈だ。(*3)
(*1)
その模様はバイノーラルマイクで収録し、以下のURLにて公開している。
カナルタイプヘッドフォンで立体音場を体験して欲しい。
http://www.youtube.com/user/KAOTAOATOAKhttp://soundcloud.com/bangi23また、「殺気立っている」というのは一種の心象風景の描写であり、実際のデモは何ら暴力的な要素はなく極めて穏便なものであったことを誤解なきよう追記しておく。さらに加えると、個人的には何が起こるかわからない創造的な「殺気」に溢れた場のほうはむしろ好みである。デモンストレーション、即ちお洒落のしがいもある。
(*2)
「反原発」とは根源において「永遠とはなにか」もっと当世風にいえば「持続性Sustainabilityの作法や如何に」という問いであり、その問いを抜いてしまえば「反原発」はコストとリスクの勘定書のもと「もっと安全な原発を」求める運動にスライド可能である。それはそれで結構なのだが、おれの興味はそこにはない。
(*3)
アレイスター・クロウリー「法の書Liber AL ver Legis」
2:27 わが内には重大なる危険がある。何故なら、これらのルーン文字,北欧古代文字を理解せぬ者は重大なる失敗を犯すであろうからだ。彼は、「だからBecause」と呼ばれる奈落へと落ち、そしてそこで彼は「理由Reason」の犬どもと共に滅びるであろう。
2:28 今こそ「だから」とその同類に呪いをかけよ!
2:29 願わくは「だから」が永遠に呪われんことを!
2:30 もし「意志」が立ち止まり、「だから」を召喚しつつ「何故」と叫ぶならば、「意志」は停止し何をも為さぬ。
2:31 もし「力」が何故と問うならば、「力」は「弱き者」となる。
2:33 「だから」にはうんざりだ!犬故に呪われよ!
posted by bangi at 00:37|
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