2011年09月01日

311以降の現実分離Reality Divideと散都のビジョン

来る10月28日19:00〜@岡山ペパーランドにて能勢伊勢雄氏はじめ各界パネラーの皆さんとご一緒するトークイベント『3.11 Nuclear Crash以降の生き方を探る』に向けて準備した自分のレジュメをなんとなくシェア。当日は津軽三味線のライブやパネラー・観客車座になっての朝まで座談会など予定されているようです。ピンときた方は是非ともハッとしてグーな感じでお気軽に足をお運びください&この機会に岡山遊びにいこっかなーて方なんかも是非どうぞ。イベント詳細情報が判り次第、再びここでお知らせします。

バンギ・アブドゥル
「311以降の現実分離Reality Divideと散都のビジョン」

私が311以降の東京で最も鮮烈に体験したことは、放射能の恐怖でも地震の被害そのものでもなく、首都圏の人々の心理的・精神的な「現実分離」現象でした。戦後からポストバブルまで形成されてきた「日常」の認識が根底から支えを失い、全てが生死のリアリティを伴いつつ切迫して問い直されるなか、東京という都市の「合意現実Consensus Reality」は共通のコードを失い、互いが全く別の宇宙に存在しているかのような、まるで無数の島宇宙に分裂したかのような混乱した言語空間・社会空間が突如、重層的なレイヤーとして現れたのです。

ある人は唯一の日常の継続を信じ、恐怖と不安の存在そのものを拒絶して目を瞑り、またある人はあらゆる状況に懐疑を投げかけ、終末論的な自閉と弾劾の身振りを反復するなか、言語はコードとコモンセンスの節点から遊離し、深刻なディスコミュニケーション状況を生み出しています。

私はこの状況をReality Divideとして捉え、現前するリアリティの断裂面をつぶさに観察することから、可能な対処と語るべき言葉を探りたいと考えます。また、分裂した現実から無数の島宇宙のネットワークが自律的に生成され、新たな均衡状態へと移行していくプロセスを「散都」のビジョンとして描き出し、瀬戸内海に投影される新たな文明圏の可能性を提示したいと思います。

キーワード:
社会病理としての解離/生死の忘却/「みえないもの」を巡る霊的内戦状態/祭りからの再開/永続性の倫理・持続可能性と断念・時間憲法/健康優良陰謀論者の作法/広域瀬戸内海文明圏・TAZ・オノコロジー


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2011年08月20日

凡魔劫 The PanDaemonAeon

沌年 ANNO CHAOS
凡魔劫 The PanDaemonAeon
黒陽殿より from Templum Nigri Solis

From:
"Rebels & Devils The Psychology of liberation" Edited by Christopher S. Hyatt,Ph.D.
ISBN 1-56184-153-6

 それは1945年8月6日午前8時のわずか後、広島で始まった。思考不可能なものと具現不可能なものが融和し、ひとつの激変をもたらした。核分裂実験は既に秘密裏に達成されていたものの、その真実の力はいまだ世界に広く示されてはいなかった。以前には不可侵だった宇宙の要素は正確なテクノロジーによって制御され、エネルギーと物質の明確な関係性が証された。地球の倫理の守護者と目されていた「源初の世界」は、完全なる慈悲深き神の名において祝福された純粋悪の使者をこの世界に送りだしたのだ。

 原爆投下は多大なリスクを内包していた。一度核分裂が始まると、全ての物質の原子構造が連鎖反応を起こす可能性が検討されていた。にもかかわらず、「自由世界の守護者」を名乗る者たちはそのギャンブルを選択した。人類は、あの朝の出来事が起こるまでは神の領域とされていた完全殲滅の力を、いまや手中にしたのだ。

 マスメディアによって、全地球的集合意識は永久に変革された。広島の原爆投下ーその破壊力の全貌をいまだ解明することが困難なほどの暴挙ーは、メディアと通じて「認可」された。それ以来、全てが許されているのだ。慈悲深き神が、思考不可能なものを顕現させ、具現不可能なものを物質化することを許すのならば、以降なにものも再び「真実」とは成り得ない。

 原爆は人類の集合魂を爆破し、巨大な穴を穿った。眼前に現出した、人類の代表者たちによる完全破壊の脅威によって、超越者、外なる宇宙原理への信仰とそれに基づく社会的・政治的構造は蒸発してしまった。わずか5分後に起こりうる地獄、それを阻止する聖なる救済の手が間に合う見込みはない。物質はいまや人類の運命とともに究極的な制御対象となったのだ。

 戦後世代は死のメカニズムから抽出されたテクノロジーによって対数的に拡大成長する社会経済を受け継いだ。新しい、加速された世界は、過剰なテクノロジー、イデオロギー、そして可能性に溢れた今日へと昇り詰めた。一方、拡大する物質的地平とともに精神的な虚無感が、新しい超越主義の形、人類の生物種的必要としての超越の探索に向かう引き金を引いた。1960年代におけるオカルトリバイバルとドラッグカルチャー、東洋思想への接近といった大規模な実験は、ビリー・グラハムと第二バチカン公会議の接近同様、この探索の現われであった。パッケージ・ホリデイからマルクス主義まで、あらゆる事物はポストアトミック社会の真空を埋めるように拡がっていったが、それらは見せかけのものでしかなかった。

 原子爆弾は精神のランドスケープのみならず、伝統的な世界観の全てを覆えした。最初の大規模な核の力のデモンストレーションは、相対性理論的宇宙から量子論的宇宙への移行を宣言した。量子理論はようやく認知され始めたばかりであり、現時点ではいまだ殆どの学校がこのポストニュートン物理学をカリキュラムに組み入れることの困難さを抱えている。そうすることは、旧来の西洋的パラダイムの全体構造に挑戦することに等しい。広島以前の世界では、科学と宗教は強く結び付いていた。双方の実践家、科学者たちがそれを否定したとしても、双方間には暗黙の同盟関係が存在した。戦前の科学思想の殆どは、アインシュタインをして最後の論理的ハードルを諦めさせた「創造者/神」というアイデアを許容し、固執していた。

 魔術、アートであり科学でもある魔術は、社会的に容認された思想の外部にあるという点において、権威的社会の限界に対する相対的な自由さを残している。魔術は、懐古趣味的な幻想に陥る危険と背中合わせながらも、人類の意識の進化に伴ってデータと技術を蓄積してきた。魔術の本性的な傾向とはプログレッシブ、エクスペリメンタル、アナーキックであることであり、充分な言語的ネットワークの欠如によって押し留められてきた、文化的メカニズムが発現する前進力そのものとしての思想である。

 魔術は、権威によっては知りえない宇宙の勇敢な探究者にとってのマトリクスとして機能してきた。ロックンロール世代の聖像破壊によって、新しい社会は自由な魔術的パースペクティヴを再発見する。それは、部族社会からマスコントロール社会に移行して以来、特権的に保護され、容易にはアクセスできなかったものだ。

 支配的文化が押し付けようとしてきた制限にも関わらず、今日の我々は情報とテクノロジーに容易にアクセスできるサイバーエイジに生きている。この世界は、かつては知識がそれを望む者たちに開かれて、直接に体験することができ、あらゆるリアリティが遍在していたシャーマニックエイジの鏡像である。我々は、かつて草木を繁み恐竜を歩かせてきた神経回路ハードウェアを所有し、そして今、それを再起動させるための新しい魔術的テクノロジーを見い出そうとしている。それがケイオスマジックだ。それによって我々は、リアリティを最大限に能率的に、直接的に操作するテクニックを加速し、完成させようとしている。この新しいテクノロジーは、全ては可能であり、あらゆる想像可能なリアリティは、我々が呼吸する普く空間のサブスペースに拡がる「ポテンシア」に息づいているという悟りを魔術師にもたらす。ポテンシアは全てを内包し、制限はない。これは正統的な見解におけるケイオスであり、遍在する原初のスープである。

 デーモンとはエナジー/情報の配置パターンであり、今やあらゆる配置パターンが可能である。あらゆるデーモンは解き放たれ、この真の時代精神は名前を持っている。あらゆるデーモンの時代、"PanDaemonAeon"。1987e.v.は42PDAでもある。

Io Chaos!
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2011年06月12日

想像してごらん(池田信夫先生に捧げる)

Imagine 想像してごらん

Imagine there's no option 想像してごらん 選択肢なんてないんだと
It's easy if you try やってみれば簡単さ
No nuclides below us 地面に放射能なんかなくて
Above us only clouds 空には雲があるだけ
Imagine all the people 想像してごらん みんなが
Power on today 今日も電気を使ってるって

Imagine there's no community 想像してごらん コミュニティなんてないって
It's not hard to do そんなに難しくないさ
Nothing to cancer or leukemia 癌や白血病に原因はなく
And no dosimeter too 線量計もない
Imagine all the people 想像してごらんよ みんなが
Living in reference line 基準値内で暮らしてるって

You may say I'm a dreamer 僕のこと、夢想家だって思うだろ
But I'm not the only one でも僕一人じゃないんだ
I hope someday you'll join us いつか君もこちら側にきて
And the world will be as one 世界はひとつになるんじゃないかな

Imagine there's no monopoly 想像してごらん 独占はないって
I wonder if you can 君ならできると思うよ
No need to save or abolish 節約も廃止も必要ない
All-electric of man 人類のオール電化
Imagine all the people 想像してごらん みんなが
Sharing all the stocks 電力株を持ち合ってるって

You may say I'm a dreamer 僕のこと、夢想家だって思うだろ
But I'm not the only one でも僕一人じゃないんだ
I hope someday you'll join us いつか君もこちら側にきて
And the world will be as one 世界はひとつになるんじゃないかな

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611同時多発デモ@岡山

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岡山市内でのエネパレ611デモに参加してきた。
http://enepare.blog.fc2.com/

東京高円寺での大規模デモに共鳴するかたちで主催されたデモ行進で、勿論岡山ではいわゆる「ニューウェイブ系」デモとしては初とのこと。主催者発表500名が参加。

デモは終止穏やかな雰囲気に包まれていて、整理にあたる警察官も極僅か。都合3人くらいしか見なかったが、3人もいればなんとか仕切れそうな雰囲気だった。

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サウンドカーなどは登場せず、各自思い思いの鳴りもので自律的なリズムを楽しむフリーセッションのよう。
路行く人たちも好意的に見守る感じで、ショップの軒先から、カフェのテーブルから、デモ隊との間で笑顔とCheersが交わされる。

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高円寺でのデモは先導する杉並警察署の車輛上から終止杉並警察署長が警告を繰り返し、爆音PAを積んだサウンドカー上ではハードコアやフリージャズのバンド、絶叫と雄叫びのアジテーター、イカレ度高めのトリックスターたちという、一種の「殺気立った感じ」がデモのテンションをいい感じに高めていたの(*1)に比べると、岡山デモにはその「殺気」はない。

これはつまり、身体的な危機感の差からくるものであろう。東京では余震も継続し、放射能に対する身体的危機感も誰しもがリアルに感じており、つまり皆「ピリピリ」しているのであり、反原発デモはその身体感覚のテンション上に、「日常」への同調圧力に反抗する極めて政治的意味の強い場であった。

しかし岡山では相対的に身体的危機感は薄く、デモ行進の身体は「戦闘状態」ではなく「合同礼拝」のようなテンションに調律されていく。昔ながらの左翼運動家たちの「闘争的」ビラもまくにはまかれるが、打楽器と歩行リズムによるフリーダンスセッションの前で、その意味は漂白されていく。

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おそらく、関東以西の各地方でも同じような空気ではないだろうか。おれはこの点に、今起きている「うねり」の可能性を見る。
いま起きていることは、おそらく、既存の文脈でいう政治行動Political Actionに留まるものではなく、ある種の締念から精留された祈りと、閉塞した世界に穿たれた一点の風穴から吹き込む冷たく新鮮な気流の知覚への率直な歓喜、祭りの予感に溢れた、より混沌として力強く、明るいものであるように思える。

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誤解を恐れずいえば、今起きているこのうねりは、21世紀の「ええじゃないか」運動という側面を持っているのではないか。そしてそれはデモの持つ政治的メッセージの切実さとActionの価値を貶めることではなく、むしろ20世紀的なイデオロギー闘争のフレームワークを軽やかに飛び越えていくための、極めて重要な視点、支点となり得る。

反原発デモなんてのは、原発がある限りいつやってもいいのだから、毎月、あるいは隔月、季間と、ずっとやり続ければよい。
そうやって、いわば原発を口実に、集い、騒ぎ、怒りも喜びも身体と時空を介して表現することの「悦楽」を浸透させていけるのではないか。

例えば岡山城下には穏やかな旭川を取り込んだ美しく大きな公園があるのだが、ここが例えば東京代々木公園のような、誰がなにするでもなく、しかしある時には誰もがそこにいるような「場」とはなっていないとのこと。全国地方都市におそらくあるこうした「場」のポテンシャルを解放し、天気の良い日や夕日の奇麗な夕べには公園に集い、飲んだり喋ったり踊ってみたりすることの楽しさを知る人間の絶対数を増やしてしまう、その口実として、今後しばらくはずっと、いつでもやれる原発デモをオーガナイズしていく、という戦略。

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そのうちに、デモの「ご当地化」が予想される。オーガナイザーは経験を積み、アジテーターは洗練され、参加者は「どう楽しむか」のノウハウを蓄積していくだろう。最初は「スタイル」を模索しサウンドデモを記号として参照しつつの試行錯誤がペースにのると、おそらく、例えば徳島では阿波踊りの新興連が、高知ではよさこいチームが、青森では若手アーティストによる現代ねぶたが繰り出してくるだろう。反原発というコンセプトは、それを可能とするくらい強い説得力と集約力を持つ。レイブカルチャーが結局はなし得なかった「祝祭の爆散」が、「真面目なええじゃないか」が、もしかしたら、今、可能なのかも知れない。

踊ること、叫ぶことがそのまま祈りであり瞑想であり得るような、そんな精神性と身体感覚を体験的に知っている、ある世代ある層が提示できる反原発の姿勢Attitudeと行動Actionとは、原発そのものよりもむしろ原発利権構造の温存を可能とした現代社会の最も深層にある「なにか」を不可逆的に更新するものであり、その目的の下に、「うねり」はイデオロギーと言語的閉塞の罠に絡めとられることを回避し続ける。さらに誤解を恐れずにいえば、お題目としての「反原発」(*2)に拘る必要もなく、むしろ観念的な「反原発」に絡めとられそうになるその瞬間にいつも、「なにか」を察知する霊感と「なにか」に対峙する身体感覚を取り戻し、新たなる脱出速度に向けて加速しなければなるまい。この世代、この世界、「今」、可能かつ有効なPolitical Actionとはそのようなものでしかあり得ない筈だ。(*3)

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(*1)
その模様はバイノーラルマイクで収録し、以下のURLにて公開している。
カナルタイプヘッドフォンで立体音場を体験して欲しい。
http://www.youtube.com/user/KAOTAOATOAK
http://soundcloud.com/bangi23
また、「殺気立っている」というのは一種の心象風景の描写であり、実際のデモは何ら暴力的な要素はなく極めて穏便なものであったことを誤解なきよう追記しておく。さらに加えると、個人的には何が起こるかわからない創造的な「殺気」に溢れた場のほうはむしろ好みである。デモンストレーション、即ちお洒落のしがいもある。

(*2)
「反原発」とは根源において「永遠とはなにか」もっと当世風にいえば「持続性Sustainabilityの作法や如何に」という問いであり、その問いを抜いてしまえば「反原発」はコストとリスクの勘定書のもと「もっと安全な原発を」求める運動にスライド可能である。それはそれで結構なのだが、おれの興味はそこにはない。

(*3)
アレイスター・クロウリー「法の書Liber AL ver Legis」

2:27 わが内には重大なる危険がある。何故なら、これらのルーン文字,北欧古代文字を理解せぬ者は重大なる失敗を犯すであろうからだ。彼は、「だからBecause」と呼ばれる奈落へと落ち、そしてそこで彼は「理由Reason」の犬どもと共に滅びるであろう。
2:28 今こそ「だから」とその同類に呪いをかけよ!
2:29 願わくは「だから」が永遠に呪われんことを!
2:30 もし「意志」が立ち止まり、「だから」を召喚しつつ「何故」と叫ぶならば、「意志」は停止し何をも為さぬ。
2:31 もし「力」が何故と問うならば、「力」は「弱き者」となる。
2:33 「だから」にはうんざりだ!犬故に呪われよ!

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2011年06月01日

第4世代魔女ユニット R.A.M.I.P.A.S.

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東京大阪に自身のサロンを持つヒーラー・谷崎「るみたん」榴美女史と、文藝賞授賞作品「メイドインジャパン」「世界がはじまる朝」で知られる作家・黒田晶女史による、イケてる「第4世代」魔女ユニットR.A.M.I.P.A.S.(*1)について。

両女史とは某結社夏至儀式及び小会合で初対面後なにかと意気投合&茶飲み陰謀話を重ねてきた。彼女たちの背景としてのガードナーからネオペイガンへの現代魔女宗の流れ、黄金の夜明け団からクロウリーそしてケイオスへの西洋儀式魔術の流れを踏まえつつ、自身の体験と実践から独自の視点と方向性を確立している彼女たちの才覚は、日本語圏におけるこの分野の重大なLost in translationを直感的に解読し、さらにTranslationを超えたCreationへと文化的状況を前進させる極めてパワフルかつ真摯なものだ。

アイコンとしての「魔女」が含む様々な要素を「正統/不純物」に分離することなく包括的に受け入れ、その根源に普遍的に蠢く力動に直接的にアクセスし得る「現在的で、故に真正な」シジルとしての21世紀日本の魔女アイコンをリデザイン/リノベーションするR.A.M.I.P.A.S.の意志は、前述のGD/クロウリー/ウィッチクラフトの近現代オカルティズムの文脈に加えダダ/シュルレアリスム/シミュレーショニズムの美学史、シチュエーショニズム/存在論的アナーキーのサイバーアクティヴィズムの流れを一本の急流へと再統合し、アキバと原発と21世紀日本のプラトーを駆け抜ける不可視の五十鈴ミルキーウェイとしてまばゆくキラめく精神潮流を生み出しつつある。(*2)

R.A.M.I.P.A.S.の標榜する「第4世代魔女」とは、「第1世代:古代シャーマニズム/アニミズム」「第2世代:キリスト教世界における対抗宗教」「第3世代:ルネサンスとしてのネオペイガン」に呼応するもので、その定義は本質的には来る「第5世代」の慧眼に委ねられるべきものだろう。彼女たち自身の言葉によれば、それは「Either / Or」ではなく「Both / And」のアイデンティティであり、そこでは少女時代に胸踊らせた「らみぱすらみぱするるるるる〜♪」(*3)が時代の霊智Gnosisにダイレクトアクセスするマントラとして鳴り響く。様々な時代にそれぞれの意匠を纏って噴出していた女性的霊智の泉を、時間的にも空間的にも外部にではなく現在という内部の森の中に再び見い出し、その精髄Elixcirを汲みだす自身の呪文と儀式を創造する。

再び彼女たち自身の言葉を引けば、それは「夢から醒める魔法」である。なにから醒めるのか? そこには重層的な「夢」を個別に指摘することができるが、例えばそれは視得ざる原発利権の暴力統治を基盤とした「戦後高度成長」とそこから垂れ流されてきた繁栄という幻覚、魔術的想像力、創造力にかけられた「中ニ病」(*4)という呪い、幕末開国以来継続され情報環境の爆発的進化によって窓穴を穿たれた言語的錯誤の檻、それらが東日本大震災によってメルトダウンした「痛ましい好機」を機敏にして逃さず、手製の海賊船(無登録/女の子仕様)でシンクロニシティの外海流に漕ぎ出し、ついには「あなたは孤独で無力である」「あなたの魔法は無効である」というFinal Nightmareを内破する企みであろう。 海賊旗には乳房と闇の谷、母なる野獣の鋭く尖った八重歯に支えられた神鏡の図案にルーン文字で"Awake, Despell, DIY"ないし"Kawaii is Numinous"というモットーが記されている筈だ。



2011年5月22日に東京・六本木Indigo(*5)にて開催された「魔女集会」- "Wiccpot"の様子は、Ustreamでの配信で多くの人が目撃しただろう。現場で行われた榴美たん書き下ろし儀式では、4方向に着席した参列者の一人一人の耳元に榴美たんが「想起せよ」から始まる4元素の即興詩を囁いた。それは勿論、R.A.M.I.P.A.S.公式サイトで公開されている式次第には載っていない、その時間その場所、その人だけの秘密の啓示なのだ。その官能的で催眠的なイメージ喚起の魔法を体験する幸運は、メルトダウンした「リアリティ」の風穴を通じて、全ての「あなた」に開かれている。

ぽろりもあるよ!

R.A.M.I.P.A.S. ブログ
http://ramipas.illumine.jp/

榴美たん@Twitter
http://twitter.com/#!/uneuneco

晶たん@Tumblr
http://diyreligioniscool.tumblr.com/

(*1)
その意味するところは一説によれば "Rumitaniac Akiranian Majo Interface and Protocol of Anarcho Spectacle" であるとされるが、定説はない

(*2)
http://twitter.com/#!/uneuneco/status/72550647702102016

(*3)
漫画及びテレビアニメ「ひみつのアッコちゃん」で、アッコちゃんが変身を「解く」時の呪文
http://ja.wikipedia.org/wiki/ひみつのアッコちゃん

(*4)
90年代初頭から311まで継続したこの閉塞状況とその内破を描ききった滝本竜彦「ムーの少年」も必読。



(*5)
http://indigo-staff.blogspot.com/
ここはネバダの巨大&壮絶アートフェスBurning Manの日本エージェントのたまり場でもあり、この偶然の必然においてもオカルティズムとアクティヴィズムのLost in translationは補完されている訳である。

PS.
ヒーラー榴美たんのセッション体験記はこのあとたぶんすぐ!
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2011年04月26日

夢の視覚、リアリティデバイド


最近地震に関する夢をみることが多い。予知夢とかそういう感じではなく、日常の一要素に地震が組み込まれつつあるようだ。

先日みた夢はこうだ。

【部屋にいる時に大きな揺れが来る。それは近々来ると警戒されていた直下型地震で、かなり大きく長く横に揺れるものだった。ビル全体が飴のようにしなり揺れる中「これは流石にかなわん」と本格的な避難を検討している。】

夢で体験した揺れは勿論、かつて実人生で体験したことのないものだった。夢の中ではしばしば、現実には体験したことのないもの、知り得ないものが現れる。夢が睡眠中の脳の記憶の混乱や再構成であるとするならば、脳はどのように知り得ないものをVisualizeするのだろうか。

様々な記憶の断片から「それらしさ」を捏造するのだ、とも推測できるが、それだけでは納得いかないケースもある。例えばこんな夢。

【夜、どこか地方都市の国道を歩いている。空には満点の星空、そして花火がこぼれんばかりに輝いている。】

この夢をみた時は明晰夢状態であったので、ひとつひとつの星々、花火のパーティクル、美しい空のグラデーション、月などが極めて鮮烈にハイファイに見えた。しかしながら、おれは子供の頃から視力が低く、またメガネやコンタクトなども殆ど使用したことがないため、実人生においてこの夢のように鮮明でクリアな視界をもってしてこのような風景をみたことは少なくとも記憶の上ではないのだ。

夢が記憶の再構成であるならば、あの星空と花火の風景もおれの実際の視力で眺めたものと同じ鮮明度で描かれる筈だ。しかし夢の世界にはしばしば、実際の身体を通して知覚される世界「よりも」鮮やかで、美しい、光り輝く光景が現れる。

このことはある種の瞑想行や明晰夢、メスカリンやシロシビン、DMTなどのハードサイケデリック、また西洋魔術におけるAstrral Projectionという技法などにおいて、能動的にイメージの世界を遊歩する際に感得される【霊界】の光景の特徴として古今東西の神秘主義文献において指摘されている。一般に、あの世の光景、夢の世界は、肉体の世界よりも光り輝き魅力的なのである。

【夢の視覚】が脳内の如何なる仕組みで感得されるのかはさておき、この経験的事実からは翻って【リアリティ】とは何か、という問いが浮上する。脳はかつてみたことがあろうがなかろうが【リアリティ】を構成することができる。目を閉じて観る世界は、時に目を開いて観る世界よりも鮮やかで、自由である。【夢の視覚】において人は普段見えない光を観、重力と空間に制限を受けない鳥や魚の視点で遊歩する。網膜の精度や重力の制限の下で感得される【肉の視覚】は、さらに広帯域に拡がる【夢の視覚】のフォーカスされた一部に過ぎないのではないか、夢を観ている脳が覚醒時の記憶を再構成しているのではなく、むしろ覚醒時の脳が、夢見状態の【リアリティ】を圧縮・再構成しているのではないか、という不穏な可能性が、先述のような夢見体験から浮かび上がってくる。

冒頭の地震の夢をみた後、おれは「古代人がみる地震の夢」について考えた。そこではビルがしなりマンションの一室が散乱するかわりに、パンテオンや縦穴住居が揺れ、貝の貨幣や祭壇の燭台が散乱しただろう。たとえその夢をみている古代人その人が、かつてそのような大地震を体験したことがなかったとしても、彼は「恐るべき大地震の夢」を族長に報告できた筈だ。

また、それは必ずしも予知夢としては受け取られなかっただろう。夢のリアリティは必ずしも通常の物理空間のリアリティとリニアで因果的な関連がある訳ではないことも、経験上感じられる。おれがこの時期にみる地震の夢はあくまで日常の一齣として組み込まれたモチーフの浮上、旬のトピックに過ぎないのであって、ただそうでありながらも、おれの脳は自分の知り得ない、かつて知らない地震のリアリティをVisualizeできるのだ。

【夢のリアリティ】では「みえるもの」と「みられるもの」の関係が、通常の時間と空間の制限を越えた次元に拡張される。そこから一階層下がった【肉体のリアリティ】でも、その名残は感じられる。我々は脳内のイメージを外界に投影して「あれはたぶん看板だろう」とか「あの交差点を右折しよう」という風に空間と時間、意味を情報処理している。さらに一階層下ると、そこには【合意されたリアリティ】Consensus Realityが他者との関わりにおいて生成されている。「放射能で死ぬる」とか「でも出社するけどね」や「事故ではありません事象です」といった、社会的リアリティだ。

まーなにが言いたいかていうと、今この【合意された現実】があちこちでひび割れて断層が走ってる、という現象が起きてると思うのね。このReality Divideは当然ある落とし処に向かって再統合してこうよ、という流れになると思うけど、完全に311以前と同じように復元されるかというとそうはならないし、またそうするメリットもないのね。原発、平和ぼけ、情報操作や同調圧力といった様々な「いらないもの」が、この断層によって可視化されているのであり、それをもっとよいものに変容させていく足がかりもここにあるのだから。

まーでもさー、【合意された現実】の亀裂てのは、慣れてない人にはそりゃ不安だよ。パニクっちゃうよね。そんな時はリアリティの階層構造をイメージしてみて、肉体の現実、そして夢の現実という風に自身のリアリティの閾値を広げていくエクセサイズつかリアリティストレッチみたいのが有効かもよ、てこと。それってどうやんの? て話についてはまたいずれの機会にな。

あとこのテーマも勿論深くて、唯識とか「物自体」とかほんとキリがないんだけど、まーなんとなく実体験に即したところから、実践的な夢見術的なアプローチで、今後もことあるごとにまとめてみようかと。例えばさー馬の夢とか。実際に馬みたことない人の夢にでてくる馬がいかにも写真やテレビぽいかというとそうじゃないんよ、てあたり。いろいろ面白エピソードをね。

まー単にiPhoneにBluetouthキーボードつけたらこれ最高てんで長文書きたくなっただけなんです。アディ押忍!


posted by bangi at 17:43| Comment(2) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月26日

お蔵出し原稿シリーズ:雄大くんの「とき」


最近HDDのバックアップをとったりして過去ばかり眺めている後ろ向きなおれですが、またいい感じの過去が発掘されたのでここに貼っておく。以下はフリーペーパー「BALANCE」に04年あたりに連載されたイラストコラム「とき」の全原稿。04年あたりというのは、メールの日付がそのあたりだったからそうなんだと思う。このあと雄大くん特集のBALANCE Vol.31"ESCAPE VELOCITY"号があったが、カラー見開き部分だけが残ってた。

toki.jpg

PDFをあげとくので暇な方は眺めてみて欲しい。ブラウザでうまく表示されない時は右クリックでダウンロードしてみてください。
(0226/23:00 リンク先データが表示されない不備を修正しました。こんどは表示されます)
http://www.eugenius.jp/Escape_Velocity_P4-5_A4_.pdf

BALANCE誌はその後も快調なようだ。iPadアプリとか出して欲しいなー。
http://www.balance-web.com/
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2010年12月13日

お蔵出し原稿シリーズ:2000年からモテる方法


以下は前世紀も終わろうとする頃、文芸社刊の雑誌「A」にシェークスピアボーイズ名義で連載された「2000年までモテる方法/2000年からモテる方法」の最終回1個前の原稿である。ひょんなことからテキストデータがでてきたのでここに再掲する。残りの原稿は未だみつからない。おそらく度重なるHDクラッシュによって失われたのだろう。誰か持ってたら消去しておいてください。嘘、ください。

シェークスピアボーイズは他にもSpectatorやTOKIONといった雑誌に温泉旅行記や某宗教団体突撃取材など扱いに困る原稿を多数寄稿した記憶があるが、その多くは失われている。そんなもんだよね。



「全ての男女は星である」アレイスター・クロウリー

そこは56億7千万年前の地球であった。
まっすぐに広がる平原の向こうに、森があった。
雨が降っていた。
きっと、もう何億年もの間降り続いていて、これからも降り続けるのだろう。
誰もいない。ただ、雨が降っていた。

その時、私は気がついた。
誰もいない。しかし、「誰か」がいる。
この雨を降らし続けているある存在、ある意図。
深い、透明なかなしみに満ち、不可視の輝きをまとう「あの御方」。
呆然自失となった私は、いつのまにか泣き崩れていた。
涙は止まらなかった。

雨は、今も降り続いている。

先日、千葉の浜金谷という小さな浜辺を訪れた。
寄せては返す波を眺めながら、私はもっと大きな波を感じていた。
全てが揺れ動いている。水も、大気も、私たちも。
私は地球の中心について考えていた。
空を見上げると、白い月と太陽が並んでいた。
そうか。「波」は星の世界まで達しているのだ。
全てはグラデーションであった。
どこにも中心がなく、無限の円周を持つ円。

「あらゆる数は無限である。いかなる差異もない。」
20世紀最大の神秘家、アレイスター・クロウリーの言葉を憶いだした。
「全ての男女は星である。」

私は、4年前の幻視体験で遭遇した「あの御方」に再会した。
(その名は、隠され、明かされている。)

仏教における究極的救済、マイトレーヤ(弥勒)の降臨は、56億7千万年「後」とされている。
私が幻視した56億7千万年「前」の地球が、今私がいるこの星のことなのか、どこか別の惑星なのかはわからない。しかしそれはやはり「地球」であった。私の源、普く宇宙に満ちる生命の第一質料(プリマ・マテリア)、ガイア、とか。

時間もまた、波である。「いま」を中心に、無限の円周へと向かうグラデーションとして時間をイメージする時、「ここ」を中心として無限に広がる空間との差異は消滅し、ひとつの球としての宇宙が像を結ぶ。球の中心は「いま、ここNOW HERE」である。そしてそこは「どこでもないNOWHERE」。円周が無限であるならば、中心もまた存在し得ないからだ。これはユダヤ神秘思想の精髄カバラの宇宙流出論においてエン・ソフ・アウル、無限の光として言及される宇宙の元像である。カバラにおいては、この無限の光が一点に収縮することにより、神の自意識そのものとしての「宇宙」が顕現する。この一点をケテルといい、以降全ての事象がそこから流出する源となるわけだが、NOWHEREからNOW HEREへの収縮、凝固のプロセスとして時空の成り立ちが説明されていると捉えれば、そのまま私たちの自意識の成り立ちにも当てはまる(ケテルは人体において頭頂部、クラウンチャクラに対応する)。

Quod est superius, Est sicut quod est inferius.

浜金谷の浜辺に、一匹の透明なクラゲが打ち上げられているのを見た。
エデンを離れ、悠久の時を旅してきた人間からみれば、すでに理解不可能なほど、単純な生命。薄皮一枚で覆われた海、凝固した海そのもののようなそのクラゲの体に、私は遍在するケテルをみた。眺めていると、一匹のフナムシがひょい、とクラゲの亡骸に飛び乗り、もろとも波がさらっていった。NOW HEREを生きたクラゲは再び、NOWHEREの海へと溶けていく。高まり、鎮まっていく生命のバイブレーションは、星の世界まで達していた。空虚はどこにもない。全ては満ち、揺らいでいる。私は持参したハーモニカを吹いてみた。その音も、揺らぎ、響き、星に共鳴した。寄せては返す波のように、私はそこで、揺らいでいたのだった。

エデンに永くは留まれない。人間は自由意志によって、エデンを出たのだ。この連載もまた、エデン回帰と出エデンの物語を共に内包している。エデンを憶いだし、再びエデンを出るという作業が必要なのだ。楽園を後にしたあなたはどこへ向かうべきか、もしかしたら、あなたはその孤独な問に愕然としているかもしれないけれども。

決まってるじゃないか。私は私を待つ恋人のもとへ還っていくのだ。それがモテるということである。


「2000年からモテる方法」第4回「宇宙プラグイン」
文芸社「A」1999年9月VOL.5
posted by bangi at 01:48| Comment(0) | 詩と芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月11日

仏教伝来2010


これは伝導しなければと思いました。



ニコニコ動画では意訳テロップがついてこれがまた成仏なのでアカウントある方は是非。
ない方もアカウントつくって是非。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm11998050

今何かが起こっている。素晴らしいかも知れない、そうじゃないかも知れないなにかが。

心配すんな、大丈夫だ。
posted by bangi at 02:09| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月23日

Summer of Illumination 2010 ”セトの花嫁”


8月14日〜15日にかけて、瀬戸内海に浮かぶ某無人島にてキャンプ&パーティ&儀式。
オーガナイザーのVoidphrenia氏の突発的な思いつきからはじまったこのギャザリングはシンクロニシティの潮目を読みつつ大胆不敵に舵をとりながら、あれよあれよという間に「その瞬間」にフォーカスしていった。

Gnostic Summer Of LoveというVoid氏のインスピレーションをもとに、Summer Of Illuminationという呼称を導きだす。SOL(太陽/Latin)とSOI(汝/Greek)の対。率直で力強く重層的な解釈と無限の変奏が可能な標識記号として、今後永きに渡って響いていくであろう強い名前でありイデアが得られた。いまここのおれたちのシンクロ祭り、SOI 2010のはじまりだ。

渡船に機材一式を積み込んで目指すのは、某無人島。人の介入を拒むような荒々しい雰囲気のビーチだが、清掃&設営が進むにつれて次第に柔らかな居心地の良さに包まれていく。地鎮祭は、島の伝承にちなんだ祝詞の奏上と、去る6月に行った田開き儀式から連なるモチーフとして楽と白玉の奉納。我々の儀式でお馴染みの鐘と、ピレネー山麓で職人が手作りしているというシャンティチャイム、Sor.Vaphomettaのなんだかよくわからない鈴玉(としか表現しようのない、鈴のようになる銀の玉)が、静かな波音と夕日に溶けて、ひとつの静寂、NOW HEREを生成する。



あらためて乾杯し、チルチルに緩いビートとBBQを楽しみつつ、夜の儀式をセットアップ。
団の公式儀礼としては通算6回目となる今回の儀式。儀式のテーマや演出は毎回、連鎖するシンクロニシティを注視しながら直前まで物語と象徴構造を練り上げていくのだが、今回は去る2009年6月に伊豆大島で執り行った公式儀礼にして自身の結婚儀式をベースに拡張展開した、いわばバージョンアップ版をつくってみよう、という明確なイメージがあった。もともとの結婚式が当初、瀬戸内海、淡路島で執り行うことを想定されていたもので、その時点で「蛮儀・セトの花嫁」と題されいたものの、最終的に伊豆大島で執り行ったために、この秀逸な言語遊戯と重層的な象徴の響きを表現しきることがなかった。今回、晴れて「セトの花嫁」を執行するにあたって、儀式はほとんど原型をとどめないまでに拡張されたが、そこにはやはり通底するもの、すなわち荒野、星空、炎による野蛮にして聖なる結婚というイメージが貫かれている。インスピレーションとシンクロニシティによって次第に式次第が発見されていくにつれ、どうもおれはずっと同じ儀式を書き続けているようだ、という感もまた、強まる。

大島結婚式では中央に配置され求心力を持っていた炎が、今回は並列したAlter、神殿とともに3つの相、ドラマの3局面のひとつとして置かれた。それは依然太陽であるが、Alterを介して対置するヴェイルに包まれた神殿とその内奥の星の光と呼応し、相対化された位置づけとなっている。これはSummer Of Love、SOL(太陽)が、星、すなわちSOI(汝)へと昇華・変容していくドラマの場としての、必然的帰結であった。

Alterに置かれ4大元素を象徴するMagickal Weaponsは、ビリヤードキュー、杯、軍刀、ペンタクルであり、大島結婚式での拳銃はキューに、小刀は軍刀に、ドラムはペンタクルへと変更されている。これは運搬の都合もあってのことだが、大きくは儀式中盤から挿入されるジャンベ演奏を意識しての変更であった。DJとジャンベのインプロビゼーションによって高められていくInvocation of Chaosのクライマックスでは、圧倒的な存在感を持つドラム=地のWeapon、聖杯としての花嫁と対峙する強度を、火、風のWeaponにも必要とされた。視覚的にも意味作用的にもより大きな身振りによって空間をダイナミックなテンションへと吊り上げていくことを意図したが、その効果は満足のいくものとなった。

タープとヴェイルによって設えられたカアバ(神殿)には、4柱のGuardian Goddessesを順次Invokeした末にアマテラスへと変容した花嫁が、裸身に丸い鏡を保持して鎮座する。参列者は一人づつヴェイルをくぐり、不可視の太陽=秘密の星の神殿でパンとワインの聖餐を受けるが、この時、女神に包容された自分自身と対面する。荒野に打ち立てられた秘密の天幕で、酩酊と雑婚の幾何学の果てに、大きなI amと小さなI amの神聖結婚Hieros Gamosが理解される。この光景は参列者の深層に強烈に働きかけ、揺さぶるものとして入念に設計された。

Invocation of Chaosに続きカアバの参拝と聖餐が順次執り行われるなか、儀式はダンスフロアへとクロスフェードし、朝日が昇るまで、力尽きるまで、かがり火とダンスが継続された。それが一人一人それぞれの、強烈なNOW HERE感覚として体験されたことを願う。

今回挙式にあたり、MagickianはFra. TBSK、High PriestessはSor.Vaphometta、DeaconsはFra. LI及びFra. 春昴がそれぞれ務めた。彼らの献身なくしてこのNOW HEREの体験は得られなかった。深く感謝する。

以上、かなりの部分をはしょりながらも、それでも以前なら絶対に書かなかっただろう内容をこうして書いてみるのは、率直に時代的なDisclosure気分によるものだ。秘密は明かされている。常に新たな薪がくべられ、秘密の炎は永遠に燃えあがる。本当の秘密とは、あなた自身に内奥にある「それ」であり、その他一切の秘密の意匠はそれにアクセスするための装置に過ぎない。今年生まれたSummer Of Illuminationというこの比類のないギャザリングが、さらなる縁と宴を編み上げていくことを確信しながら、それに相応しい新たな「話法」の探求に一種のお気楽な使命感を感じつつ、

2010年8月、常に新しい都にて 
KAOTAOATOAK

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(後日談や写真など、適当にアップする、かも)
Voidphrenia氏のSOI 2010記事はこちら

posted by bangi at 02:43| Comment(1) | 神秘 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする