amazonのレビューで「日本のポップ・カルチュアの極点」というのがあったが、完全に同意。 コレオグラファーMikiko女史の振り付けはLaLaLa Human stepsのサイバネティックなスピード感やピナ・バウシュの象徴舞踏言語と呼応する真にContemporaryと呼べる水準での挑戦と示唆に溢れつつ、それを「あいどる」(c)William Gibsonの文脈とシームレスに接続している。
J. Daniel Gunther "Initiation in the Aeon of the Child: The Inward Journey " の序章で論じられる"Paradigm shift of Initiation"は、ここ3,000年ほど地球を席巻してきた「死にゆく神Dying God」の秘儀がCrowleyによってAbrogate(無効)とされたゆくたてに、おそらくはCrowley本人以上に冷徹で明快なScientific scopeを提供する。
モデルの甲田益也子がVoのユニット、DIP IN THE POOLのビデオクリップが全部Youtubeにあがっててサンキュー。
このクリップは実家がパイオニアのレーザーディスクプレイヤーを買った時に付属していた「レーザーディスクの高画質・高音質を楽しんでね」的サンプルディスクに収録されていて、今考えるとかなりエッジのきいたディスクだった。他には坂本龍一の名曲Thatness and therenessにフェアライトなサイバー環境映像をあわせたものやP-MODELのKARKADORにピーター・カラスなるビデオアーティストがやっぱりいかにもフェアライトな画をつけたものなど。同じスタジオで一気につくったのだろう。フェアライト祭り。小学生か中学生かだったかのおれは存分に楽しんだ。
これこれ
まーともかくDIP IN THE POOLだが、80年代の最良の部分が凝縮されたスーパークオリティにびっくり。画も音もコンセプトもまったく古くならないってどういうことか。 こういうお洒落具合て最近ないのは、不景気だからですか?「自然体」てことの捉え方が、このあたりと今で少し違ってる気がする。
DIP IN THE POOLへの眼差しが甲田益也子という「存在」のみにフォーカスしその他一切の物語を切り捨てること(または一切を暗喩の次元で完結させてしまうこと)である強い透明度を達成していることに対し、相対性理論はべたつくように陳腐な物語が中心の「不在」にブラックホールのように吸い込まれていく禁断の快楽を提示する。昭和歌謡、女子高生、SF(ここに雄大くんが登場している)といった物語の断片を、ブラックホール経由でホワイトホールから再び怒濤の勢いで枯渇した世界へ噴出させる、意味のバッコス祭、不在祭。超光速の女司祭の残像は、あるはずのないペニス、太陽のしっぽRabo del solとしてのみ感得できる。 http://www.kauntar.com/23/vol_m06.html